> 前回の返事の続きです。(長過ぎて切られてしまいました。)
> 「インテリ音楽」「聴く者とコミュニケートしようとしないような音楽」と感
> じてしまう人たちは、いまだに、その多様性に気づいて(多様性を認めて)い
> ないのだと思います。そして、それは「哲学は難しい」と言っていることにも
> 似ています。
現代音楽をインテリ音楽としてはあまり聴いていません、「聴く者とコミュニケートしようとしないような音楽」
というのは考えた事もありません、僕にとって聴く者にコミュニケートしようがしまいが、そんな事は、好き
嫌いにあまり影響されません
> 私自身、いくつかの作品について、これは思想そのものであると時々感じます。
> こういう作品に接し、いろいろ*考える*ことによって、(自分で言うのもお
> こがましいですが)内面が成長してきたと思っています。
それは結構な事ですね、そういうように自信が持てるようになるという事もあるのでしょう
> これからも、気持ちの良い音楽ばかりつくっていけない、芸術家として創造的
> でありたい、社会に問題提起したい、という作曲家の作品を進んで聴いていき
> たいと思っていますし、従って、もちろん、「だめ」などとも思っていません。
僕は、あらゆる意味で気持ちの良い音楽しか聴いていません
> >多くの作品は知識がなければ、おもしろさがわからない、という事ですね?
> そういわれるとなんだか返事に窮しますが、その作品の構造を知りたいという
> 好奇心がわきおこりませんか? 少なくとも、もし、「知識」がない場合には、
> 「これはいったい何なんだ?」という気持ちが起こるはずです。そこからは、
> 聴く者次第でしょう、「インテリ音楽」と非難するか否かは。
では、芦屋さんはどのようなつまらない音楽にも自分が理解できなければ理解したい
という欲求が起こるんですか?僕は間違いなく起こりません。
インテリ音楽という事を非難してはいません
> >それが開閉的な音楽なんですよ
> 「開閉的」ということばを使っておられますが、何を「開」とし何を「閉」と
> されているのでしょうか?
「開」=「感覚」、「閉」=「知識」の意味で最初使ったつもりでしたが
そこでは閉鎖的との間違いです