> まずはぼくの使っている「二重構造」、「皮袋」の意味を整理します。
> 「二重構造」とは表現内容と表現形態との分裂、ということになるかと
> 思います。そしてこれは「皮袋」とその中身とに対応させて考えています。
> つまりこのふたつが統合されてひとつの表現が成立する、と一応この話の
> なかでは設定しています。【中略】
> 逆に皮袋と中身は別のものでありながら切っても切れない関係にあるのだ
> と話したつもりなのです。
なるほど、ここに私のほうで誤解がありました。以前の
> 何らかのフィードバックが返ってきて・・というサイクルに
> おいて二重構造をつくることはそれを分断してしまうことです。
というくだりから、「この二重構造的発想が良くないんだ」と理解したんですが、二重構造はあるものとして、それを分断して考えてはいけない、という意味だったんですね。
……そうか、それは一部理解していたと思うんですけど、それに対して私は、中身が入れ替わっても袋と中身に矛盾が生じなければそれはそれで成立するのでは?と答えたわけです。ここで「中身が入れ替わったら矛盾を起こさないわけないじゃないか!」と反論するのはちょっと待って下さい。これは狭い意味での袋と中身の話なのです。つまりこの場合私のいう二重構造は、表現が既に成立していて、その範囲内での入れ替えの可能性を言ったもの、三輪さんの二重構造はもう少し抽象的でメタレヴェルのものなんですよね。
> 「皮袋」のたとえは古い表現形態の中に新しい内容を詰め込んでも中身を
> 腐らせてしまうだけだ、という意味で使っています。
それはまさに諺通り。私はその意味から逸脱しておりました。
> この表現形態のことですが、楽器の編成やコンサートホールを使った「音楽会」
> のような社会的形式のことも含みますが、なによりも制度化された現代音楽の
> 表現様式、美学的基盤についてどのように関わるのか、という点にぼくは
> 注目しています。
このメールの展開が始まってから、いろいろ考えているんですが……
三輪さんのメールでのご指摘、それはこういった表現形態についての認識、考慮の甘さを指摘する、というものでしたね。私個人にとってはそれはとても意味をなすものだし、たぶんCc:をした他のメンバーにとっても同様でしょう。これはいくらでも自問自答できる問題です。しかし作曲家の集まりであるテンプスとして考えた場合、上記観点から徹底的に批判を繰り返すと、たぶんテンプスなんてもはや存続できないんじゃないかとも思うわけです。テンプス自体が既に「制度化」されたものですから。このことについてどう思われますか?
山本裕之