田中の意見(1)1998.08.18

三輪さん、山本さん。

田中吉史です。

三輪さんの御感想に早速反応しようと思ってたのですが、色々考えているうちに考えが複雑になってしまい、遅くなってしまいました。Webでもこのやり取りが公開されているし、遅きに失した感もあります。ここでは、わざわざ三輪さんから御意見を頂いたことと議論をわざわざCc:してくださったせめてのお礼に、僕自身の考えたことについてだけ書いておきます。

三輪さんには何がともあれお礼を言います。山本さんも書いているように、ここまでストレートにものを言ってくれる人が、今や貴重になってしまったから。そしてそういうストレートな発言が、決して意味の無い中傷ではなく、発言者自身の深い問題意識から生まれていると言う点についても。9年もしつこくコンサートをやっていると、段々それだけで文句を言うひとが居なくなってくるような感じがしていて(これをエスタブリッシュメントと言うのでしょうか?)、自分でも気色わるいなと思っていたので、非常に刺激的でした。

最初、「表現の基盤」ということがいまいち漠然として分かりにくかったのですが、後のほうの三輪さんの発言で、はっきりしました。やはり山本さんの言うように、三輪さんの問題意識は、根本的には僕や他のテンプスのメンバーともそれほど大きく違わないと思いますよ。というか、僕自身は、

>さらにつけ加えればここで「コンサートという形式」の意味
>するものは西洋音楽の伝統、世界観、芸術観なども含んでいます。

という、三輪さんの指摘される点についての何らかの問題意識なくして今や作曲なんて出来ないだろうと、考えているので、その分だけ三輪さんの批判は痛烈に感じられるのです。

もう随分前、Tempusの2回目と3回目のテープを聞いてもらったとき、三輪さんがわざわざ手紙を書いて下さったことを思い出します。そのときは、「佳く書かれているものにはオリジナリティが無く、オリジナリティを指向するものには技術が無い」といった指摘を受けたと思います。9年も同じことをやっていると、嫌でも「上達」してしまいます。その意味では、全体として「うまくなった分、オリジナリティは消えてしまった」という事かもしれませんね。僕自身も「うまく書けている」という、ありがたいんだかありがたく無いんだか分からないコメント(多分善意の)を貰うことが出てきて、そう言うことを意識したりもします。僕自身はできるだけそう言われないようにしなければと思っているので、要反省です。

ところで、「表現の基盤」と一口に言っても様々な側面、レベルがあります。以下、論点を絞るために、三輪さんの言われる「表現の基盤」のうち、最も狭い意味での「コンサートという枠組み(形式)」について書き、そこからさらに「(より広義の)表現の基盤」について考えてみたいと思います。

ほぼ同じ面子で9回もコンサートをやっていると、プラグマティックな意味でのコンサート運営はスムーズにできるようになってきます。逆に言えばその分「コンサート」というフォーマットに「安住」してきたのかもわかりませんね。その意味ではこれは大きな反省点です。
毎年、次回のテンプスのコンサートについて話し合う度に何となく話題になるのは、テンプスが「ミニ現音」化することの危機です。結局、作曲家が寄り合ってお金を出し合ってコンサートをする、という原理は「民主的な」現代音楽の組織である現音のやってるコンサートと変わらない(というか作曲家がグループを作ってお金を出し合ってコンサートをする、という形式がここまで定着しているのは日本だけでは無いでしょうか)。もちろん毎回色々工夫をして企画をたてる(演奏家に焦点を当てる、とか、プレトークをやったこともあったし、譜面や録音類を販売する、ということもやった)わけだけど、結局は「コンサート」という枠組みでできることしかやっていない、のは確かです。
考えてみれば「何人かでグループを作ってコンサートを行う」というやり方はかなり多くの側面で作曲家のアイディアを縛ってしまうことにもなります。例えば、どうしても2時間かかる曲をやりたいと思っても、5、6人メンバーがいるのなら、実現はそのコンサートでは難しいことになります。
現在、東京で活動している作曲家のグループは幾つかあります。中にはかなり「コンサート」然としていない催しを行っているものも無いわけではありません。その点ではテンプスは決して個性的な団体とは言えません。
その意味で、今後のテンプスの活動について考え直すチャンスかもしれない、という気はしています。これは別に三輪さんに言われたから、ということでは無く、もういい加減10年もほぼ同じことをやってるし、僕自身は毎年感じていることなので。

僕自身、振り返ってみると、今までコンサート以外で演奏されるような作品を作ったことはありません。「コンサートの制限」について意識していながら不勉強なせいでもあります。とはいえより広義の「表現の基盤」については、全く考えていないわけでは無いつもりです。僕自身も、今までの「現代音楽」では実現されてこなかったことを実現したい、と考えています。「実現されてこなかったこと」というと大袈裟ですが、やはり今まで無かったものを作りたいと言う気持ちは(素朴な形でではあるにせよ)持っています。例えば、目下の関心として、音楽における細部の経験と、時間的な叙述について、というのがあります。「音楽」にしか出来ないことは何か、ということを考えたとき、僕自身はそこに自分の関心の焦点を当ててゆかなければならないと感じています(うまく言えませんが)。とはいえ、それは「コンサートで演奏される音楽」ということが実際には前提となっていることが多いし、その意味ではあまりラディカルなものとは言えないかもしれないですね。重箱の隅を突いているようなものかも知れません。ただ、僕自身は「二乗構造」を作っているつもりはないし、また、物事を変えてゆくためには、トップダウンにだけではなく、ボトムアップにも作業をしてゆかなければならないとも考えているのです。苦しい言い訳のようですが。

「西洋音楽の伝統、世界観、芸術観など」やさらには「制度としての芸術」についての見直し、は今まで全くなされてこなかったわけではなくて、歴史の本には、60年代から70年代に非常に様々な試みがなされたことが記されています。でも、それと同じような事をくり返すことが本当に根本的な問題の解決になるんでしょうか?いま例えばハプニング的なことをやればうけるかもしれない。でもそれは多分、今となっては80年代に大はやりして「エスタブリッシュ」してしまった「パフォーマンス」としてカテゴライズされてしまうでしょう。それは面白いでしょうけど、もはや何も考えさせてはくれないのです。

最近何人かの人が日本における現代音楽は活況を呈している、と発言するのを聞きました。それ以前の一時期は停滞していた、という含みがあるのでしょう。確かに僕が10代のとき、「若い」作曲家がみんなMやらTやらのような曲を書いているのをみて、面白いと思ったことは無かった。この10年くらいは作曲家のグループが増えたし、コンサートの数も増えたような気がするし、色んな作曲家が日本にやってくるようになった。ただ、「停滞」していたときと比べて数が増えただけかもしれない。質的にはヴァラエティが増したように見えなく無いけど、「新しい」ことをやっていると言われる人たちも、結局本に書かれている60年代と全然変わらないか、もっとファッショナブルになっているに過ぎないのかもしれない。三輪さんの指摘は、この10年の「活況」がどのようにして生じてきたのか、ということについて考えるためのひとつの手がかりでもあると思いますし、それはまた自分の活動について問い直すことでもあるでしょう。

> 山本さんの言うとおり、ぼくが紛糾したことを誰もが「意識していない」
> わけではないでしょうが、この最も大変な問題に対して勇気を持って
> 対決していない。

僕の見方は往々にして悲観的ですが、個人的には無気力では無いつもりです。ただ、今この「最も大変な問題」に対決してゆくためには、安直な方法を取りたくは無いし、そのためには少しずつでもいい、じっくり知恵を絞らなければならないというのが僕の今の考えです。

山本さん、このメールはやたら長いので面倒ならHPにのせなくて良いです。
最近の三輪さんのお仕事は、ちょっと怠けてフォローしてませんでしたが、今度はこちらからメールします(ふっふっふ.....)

では。

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