やっと登場してくれましたね!
>9年もしつこくコンサートをやっていると、段々それだけで文句を言うひとが居なく
>なってくるような感じがしていて(これをエスタブリッシュメントと言うのでしょう
>か?)、自分でも気色わるいなと思っていたので、非常に刺激的でした。
既成事実をつくりあげたということだけでも、なかなかできない立派なことだと思っています。
>後のほうの三輪さんの発言で、はっきりしました。やはり山本さんの言うように、三
>輪さんの問題意識は、根本的には僕や他のテンプスのメンバーともそれほど大きく違
>わないと思いますよ。
はい。意識がないじゃないか、と言いましたが、本当にないとは思っていません。だからぼくの言っていることが伝わる、了解可能であると信じて罵倒(?)したわけです。(そうでないとただの罵倒になってしまう!)
>。僕自身も「うまく書けている」という、あ
>りがたいんだかありがたく無いんだか分からないコメント(多分善意の)を貰うこと
>が出てきて、そう言うことを意識したりもします。僕自身はできるだけそう言われな
>いようにしなければと思っているので、要反省です。
ぼくはいままで「うまく書けている」と言われたことがないので複雑な心境ですが、「うまく書けている」という言い方は既にあるスタイルをよりよく自分のものにしている、という響きがありますね。ハワイアンでもヘビメタでもそれ特有の精神と語法があるわけで、その世界にたゆまぬ修練によって自分を同化させていく、というような・・ぼくにとって現代音楽はメタフィジックという言葉に似て、そのようなスタイルそのものを問い直し、新しく創出していくような試みのように考えています。この点でみんなと意識がずれていたり、重要度が大きく違っていると対話が難しくなりますが、ぼく自身はこの点でかなり極端で少数派であるだろうと意識しています。
>毎年、次回のテンプスのコンサートについて話し合う度に何となく話題になるのは、
>テンプスが「ミニ現音」化することの危機です。結局、作曲家が寄り合ってお金を出
>し合ってコンサートをする、という原理は「民主的な」現代音楽の組織である現音の
>やってるコンサートと変わらない(というか作曲家がグループを作ってお金を出し合
>ってコンサートをする、という形式がここまで定着しているのは日本だけでは無いで
>しょうか)。
日本だけかは知りませんが、「儲けなくてもいいけど、金銭的にマイナスになるコンサートはしない」という原則をぼくは随分長い間貫いてきましたが、ああ、それなのに日本に戻って、今度やるコンサートは切符のノルマをたっぷり持たされることになりそうです・・
ソンナコトハイイトシテ!それをネガティブにだけ考えるのではなく、逆にどうして誰からの借りもない、制約もない自分たちだけで「勝手に」やるテンプスのコンサートの意味と尊さをもっと意識しないのだろう、とぼくは悔しく思っています。”「ミニ現音」化することの危機”はみんなが力を合わせて発表の場を作ること、その形式にあるのだとは全然思いません。
「勝手に」やるのだから形式的にも内容的にもみんなは自由なはずです。どこかの現代音楽のコンサートのマネをする義理なんてどこにもないはずです。1000人も観客がくるわけではないのだから、プログラムに俳句のような数行の曲目解説を仲良く載せるぐらいなら、作者が何を求め、何をしたのか大論文を堂々と書いてワープロで打ってコピーして各自が観客に配ればいいじゃないですか。
(単なる一例ですよ〜!)
日本の現代音楽のコンサートでは観客は必ず曲が終わると暖かい拍手をします。アンコールはしません。良い曲だったかそうでなかったか、どころか自分自身が楽しめたかどうかに拘わらず必ず同じような暖かい拍手です。複数の人々が決まったところで決まったことをかならずやるような集会を儀式と呼びます。おかしいと思いませんか?
やーさんじゃあるまいし、ゲンダイオンガクのコンサートには何故か観客をびびらせ、素直に音楽を楽しませない欠陥がどこかにあるのです。そんなものをどうしてなんの工夫もなく自分たちが「勝手に」しかも大きな犠牲を払って行うコンサートでも踏襲するのでしょうか?”「ミニ現音」化することの危機”というものがあるとしたら、ぼくにいわせればこの点です。テンプスが現音のマネをするから「ミニ現音」化するのです。あたりまえです。
>ほぼ同じ面子で9回もコンサートをやっていると、プラグマティックな意味でのコン
>サート運営はスムーズにできるようになってきます。逆に言えばその分「コンサート
>」というフォーマットに「安住」してきたのかもわかりませんね。その意味ではこれ
>は大きな反省点です。
(とばし)
>もちろん毎回色々工夫をして企画をたてる(演奏家に焦点を当てる、と
>か、プレトークをやったこともあったし、譜面や録音類を販売する、ということもや
>った)わけだけど、結局は「コンサート」という枠組みでできることしかやっていな
>い、のは確かです。
一応確認ですが、ぼくは「コンサート」という枠組みが古くさい前世紀の遺物だと思っているわけではありません。ぼく自身今後も劇場を想定した作品をどんどん書きたいと思っています。自分の作曲行為とそれらもろもろの目に見えるもの、見えないものがどのように関わっているのか、もっと考えてみるべきなのではないか、と提案しているつもりです。
>「西洋音楽の伝統、世界観、芸術観など」やさらには「制度としての芸術」について
>の見直し、は今まで全くなされてこなかったわけではなくて、歴史の本には、60年代
>から70年代に非常に様々な試みがなされたことが記されています。でも、それと同じ
>ような事をくり返すことが本当に根本的な問題の解決になるんでしょうか?いま例え
>ばハプニング的なことをやればうけるかもしれない。でもそれは多分、今となっては
>80年代に大はやりして「エスタブリッシュ」してしまった「パフォーマンス」として
>カテゴライズされてしまうでしょう。それは面白いでしょうけど、もはや何も考えさ
>せてはくれないのです。
もちろんです!繰り返せなどと言っているのではなく新しく考えろ、と言っているつもりです。そして逆にききたいのは、とうに死んでしまったジョン・ケージの後にあなたは一体今頃何をやっているのか?!(ここまで言うと自分が苦しくなるっ)指摘の通り、現代社会では何をやってもそれはあっと言う間にカテゴライズされてしまうでしょう。でもその網の目をくぐり抜けること、いや、網にかかる前にもう次の場所に移っていることしか道はないのではないでしょうか?(く、苦しいっ!)
>僕の見方は往々にして悲観的ですが、個人的には無気力では無いつもりです。ただ、
>今この「最も大変な問題」に対決してゆくためには、安直な方法を取りたくは無いし
>、そのためには少しずつでもいい、じっくり知恵を絞らなければならないというのが
>僕の今の考えです。
よくわかります。普通は何年もかかるはずです。
>山本さん、このメールはやたら長いので面倒ならHPにのせなくて良いです。
もったいない。のせましょ!
>最近の三輪さんのお仕事は、ちょっと怠けてフォローしてませんでしたが、今度はこ
>ちらからメールします(ふっふっふ.....)
こ、コワイよ〜〜!
みわまさひろ