田中の意見(2)1998.08.22

三輪さん(山本さんにもCc:)

リプライありがとうございました。

> ぼくはいままで「うまく書けている」と言われたことがないので複雑な心境ですが、

えっ、そうですか?でも僕は三輪さんの曲をきいて「おおなるほど」と説得させられますよ。自分の言いたいことを言うために必要なことはきちんと実現されている(と思う)。その意味では「うまく書けている」と思います。

> 「うまく書けている」という言い方は既にあるスタイルをよりよく自分のものに
> している、という響きがありますね。

そうそう、一般的にはそういうニュアンスで使われる。だからそう言われると嫌なんです。
究極的には「自分がやりたいことをやって、それで他の人を説得できるようにする」のが技術(うまく書くこと)の目的ですから、おべんちゃらばかり上手くなったって仕方ないんです。

> ハワイアンでもヘビメタでもそれ特有の精神
> と語法があるわけで、その世界にたゆまぬ修練によって自分を同化させていく、
> というような・・
まさに「文化財保存のための伝統芸能」というか。
(でもそれって「伝統」なんだろうか。単に「保存」に過ぎないのでは無いだろうか。)

> ぼくにとって現代音楽はメタフィジックという言葉に似て、
> そのようなスタイルそのものを問い直し、新しく創出していくような試みのように
> 考えています。この点でみんなと意識がずれていたり、重要度が大きく違っていると
> 対話が難しくなりますが、ぼく自身はこの点でかなり極端で少数派であるだろうと
> 意識しています。

CDストアの「現代音楽」コーナーにある全ての音楽がそう言う精神で作られているとは言えないと思うし、中にはそう言うことを毛頭考えない人もいるだろうけど、僕はそういう精神は必要だと思っています。

ただ、この「スタイルを問い直し、新しく創出してゆく試み」は、本当は「現代音楽」だけでは無くて、いろいろな表現のジャンルにあるはずの事なんだと思うんですよね。例えば、新人コンビのコントをみて、芸能評論家が「きれいにまとまってるけどインパクトが無い」とか言うのを見てると、とても他人ごととは思えない(^^;)。「現代音楽」って、何故かクラシックのコーナーの中に置かれてるじゃないですか。だから余計浮いてしまってるように見えるんじゃないかと思うんですよねえ。余談ですが。

> ソンナコトハイイトシテ!それをネガティブにだけ考えるのではなく、逆に
> どうして誰からの借りもない、制約もない自分たちだけで「勝手に」やる
> テンプスのコンサートの意味と尊さをもっと意識しないのだろう、とぼくは
> 悔しく思っています。”「ミニ現音」化することの危機”はみんなが力を合わせて
> 発表の場を作ること、その形式にあるのだとは全然思いません。

なるほど、これは確かに。今「10周年」の企画をどうするか考えていますが、この点も検討する必要はある。

> 日本の現代音楽のコンサートでは観客は必ず曲が終わると暖かい拍手をします。
> アンコールはしません。良い曲だったかそうでなかったか、どころか自分自身が
> 楽しめたかどうかに拘わらず必ず同じような暖かい拍手です。複数の人々が決まった
> ところで決まったことをかならずやるような集会を儀式と呼びます。
> おかしいと思いませんか?

こういうことを言うと「自爆」ですが、結局現代音楽のコンサートに来てくれる人って、大抵は、現代音楽に興味がある、と言うより、知り合いの曲をやるからとか知り合いが出るから、と言うくらいのモチベーションなんですよね。もちろんそう言う人が、これが切っ掛けで現代音楽リスナーになってくれる可能性もあるわけですが。そういう背景もあって、非常に予定調和的に拍手を頂く事になるんだろうなあ、と。もちろん日本の聴衆は「シャイ」だから、という良心的な解釈もある。先日ダルムシュタットに行って「ブーイングの嵐」というのを初めて見ました。そう言えばベルギーで活動しているある演奏家が、日本の現代音楽のコンサートを聴いて、「コンサートの内容はヨーロッパのと変わらない程度のものだが、客が湿っぽいのが嫌だった」と言っていたのを思い出した。

> 繰り返せなどと言っているのではなく新しく考えろ、と言っている
> つもりです。

勿論そう理解しています(確認のため)。

> そして逆にききたいのは、とうに死んでしまったジョン・ケージの
> 後にあなたは一体今頃何をやっているのか?!(ここまで言うと自分が苦しくなるっ)

そうなんですよ。まさにケージ以降に「作曲」と称する活動を続ける人にとって、本当はだれもが深刻にならざるを得ない問題なんです。

また余談ですが、僕の「カテゴリー」化したところでは、ケージ以降の「作曲」に対する態度は大まかに言って3通りくらいあるように思います。一つは、ケージ以降、作曲なんてあり得ないんだ、と言って作曲を止めてしまう人(音楽を止めてしまうこともあるだろうし、「パフォーミングアート」に身を投じる場合もある)。もう一つはケージなんて自分の作曲とはなーんにも関係ありません、と開き直る人。3番目は、ケージだって結局「作曲」してたしペータースから「出版」もされてたんだし、だから作曲そのものは否定されないんだ、という人。僕自身はまだ何と言って良いのか分からないんです。少なくとも初めの二つではないと思う。でも3番目はなんだか余りにも「プラグマティック」過ぎて素直に「はい」と言えない気がする。

> 指摘の通り、現代社会では何をやってもそれはあっと言う間にカテゴライズされて
> しまうでしょう。でもその網の目をくぐり抜けること、いや、網にかかる前にもう
> 次の場所に移っていることしか道はないのではないでしょうか?(く、苦しいっ!)

自分の作ったものが、もし新しいものだったとしても、それがまた新たな「網」になってゆく危険がある。新しい表現を探究する人は、今や冒険者というよりも逃亡者というべきなのかもしれない。

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