前回ぼくが先走ってきちんと伝えることができなかった部分を整理してよかったと思っています。(つまりこれから二周り目に突入するのかな・・?!)
>このメールの展開が始まってから、いろいろ考えているんですが……
>三輪さんのメールでのご指摘、それはこういった表現形態についての認識、
>考慮の甘さを指摘する、というものでしたね。
はい。それはある視点からみればそれぞれの作曲家に意識の程度において大きな違いがあるとは思いますが、別の視点からみれば五十歩百歩で、ぼくに言わせればどの作品にも共通していたように見えたのです。
>私個人にとってはそれはとても意味をなすものだし、たぶんCc:をした他の
>メンバーにとっても同様でしょう。これはいくらでも自問自答できる問題です。
>しかし作曲家の集まりであるテンプスとして考えた場合、上記観点から
>徹底的に批判を繰り返すと、たぶんテンプスなんてもはや存続できないんじゃ
>ないかとも思うわけです。テンプス自体が既に「制度化」されたものですから。
>このことについてどう思われますか?
それは、そうです、ともちろん言うことだってできますが、それはぼくが言いたいことではありません。むしろその逆で、作曲家が集まってひとりではできないことを現に実現していることに、むしろこれからの可能性を見いだし、期待しているのです。もう、「XX派」なんて言う時代ではありません。つまり美学的、思想的な共通点(同じ先生の門下なんていうのはサイテーですね)を基盤にスクールを作ることは非常に考えにくい。もしかしたらテンプスのメンバーの誰かは「日用品を共同購入すれば安くものが買える」程度にこのグループのつながりを感じているかもしれません。それでもまったくかまいませんが、とにかくそれぞれに表現したいという欲求があり、それを発表するという同じ目的を持った人間が集まり、どこかの権威を頼ることなく「勝手に」コンサートを開いてしまう、というのはぼくが最も尊敬し、好ましく感じる態度です。
個人的なことですが、大学卒業の頃、だれにも作品など頼まれず、演奏されるアテさえない作品をそれでも「このアイデアを実現するにはこの編成がいいな」などと「勝手に」そして大きな喜びと共に作曲していた時代がいつもなつかしくなります。これが原点でしょう。
それがいつのまにか、作品が演奏されるようになり少しづつ委嘱などをもらうようになると、クライアントが暗に要求してくる(と勝手に自分が思いこんでいる)期待に答えることに精一杯になって時間がないのでキケンなことは避けて過去に実験済みの確実な方法で作曲するようになり「やりたいことを勝手にやる」精神が萎えていきます。そしてそのうちオーケストラ作品で賞をとり、行く末はオペラを書く、というのがこの世界の定番出世コースなわけですが、(^_^ : 本当にそのような道が良いのか?自分はもちろんのこと、同時代の人々が必要としていたものは本当にそのようなものなのかをぼくは考えてしまいます。
話が横道にそれましたが、自力で「勝手に」コンサートを開いているテンプスにはだから、いやがうえにも期待は高まるわけです。そしてぼくが言っていることは、
せっかく「勝手に」やってるのに一体何をおそれてるんだ〜?
ということです。ゲンダイオンガクをポップにしよう、とかコンピュータを使ったらどう?とか言っているわけではありません。でも、表現形態が外面的にも内面的にも(つまり両方とも!)あまりにオキマリの語り口でぼくには魅力が感じられません。(そんなこといったら今のゲンダイオンガクはみんなそうだと言うかも知れませんが、実際そうです。)
せっかくグループがあるんだから、音楽は「孤高の作曲家」がひとりで創るもの、という伝統を捨ててみたらどお?「新東京楽派」みたいな時代錯誤のエセ集団を名乗ってプロバガンダしてみたらどお?みんなリニアな時間軸を構築する経験と手腕をもってるんだから音なんて使わないで作品を作ってみたらどお?
・・・なんて、てきとーに挑発したくなってしまうのです。ですから”テンプス自体が既に「制度化」されたもの”であることは百も承知、「グループとしてなにかを団結してやる」必要性や期待はないのだけれど、何かトンデモナイことを考えてやってしまうパワーとチャレンジ精神だけはみてみたい。
まとまらなかったけれど、今回はこれくらいで。
みわまさひろ