41)

 実際に演奏してみて思うのは、この曲のように、4拍に跨がる連符などを、感覚に任せて弾くのではなく、細かく正確にソルフェージュさせることで、クラシカルな連符のルバートを初めて排除することが出来るという事実です。
 クラシックではもちろん連符はルバートと共に演奏されるべきですが、この作品に関しては、連符内のルバートは、音の輝きをくすませる以外の何ものでもありません。

 現代音楽の演奏も、恐らくこれから大きく見直されるべき時期が来ると確信しています。
 演奏するだけの再現芸術ではなく、音楽演奏にも大きく創造性が必要だと思うのです。
 それは、現代音楽といわゆるクラシック、モダン音楽との境界線が、少しづつ無くなってきたことの証しではないでしょうか。

 Etwas...が作曲されたのは、1967年、もう30年以上も昔のことですから、その演奏の責任がより演奏家に課されるようになったとしても、恐らく当然の流れではないかと思うのです。

2002.11.18

42)

 現代作品の演奏と一口に言っても、作曲家が存命か否かは大きな違いです。
 ドナトーニのように、演奏は基本的に全て演奏家にゆだねる、という立場の作曲家なら、演奏する方は気楽な部分もありますが、一口に作曲家と言っても様々な性格の人たちがいますから、演奏家はあくまでも作曲家の願望の実現に徹しなければいけないこともあります。

 もっとも、作曲家の口から、明確に自身の願望を説明して貰えれば、かなり仕事も捗るものですが、作曲家自身もどう表現してよいか分からない、ファジーな表現を望まれると、演奏家は戸惑うこともあります。

 かと言って、妙によどみなく授業でもされるように、得々と作品の説明を受けるからと言って、演奏家の士気を高めるものでもないのですから、人間というのは、厄介なものです。

2003.2.4

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 反対に、楽譜しか音楽を知る手立てのない作品を仕上げるのも難しいものです。
 昨年秋から暮れにかけて、何曲かカスティリオーニを振る機会がありましたが、あれ程シンプルな楽譜ながら、それを音楽として納得のゆく仕上がりにするためには、かなり時間がかかることに驚きました。

 例えば、12月には、オーケストラのための「クリスマスの夜の小協奏曲」を何度かツアーで取り上げたのですが、恐らくこの楽譜通り、ただ演奏したとしたら、ただのつまらない新古典作品としか聴かれないでしょう。

 この単純な複調性作品が、なぜカスティリオーニなのか、どうして「クリスマスの夜の小協奏曲」なのか、最初は理解できませんでしたが、書き付けられた音符や、特に大雑把な強弱記号の向こう側が聴こえ、風景が見えて来たとき、文字通り、目から鱗が落ちるような思いがしました。

2003.2.11

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 この作品は小さな3楽章形式で出来ていますが、活き活きとした1楽章、2楽章はうねうねと続くオスティナートの上に唄われる、フルートとヴァイオリンがひたすらに際限ない唄をつづり、3楽章は遅くも速くもないテンポで、特に音楽に方向性があるわけでもなく、最初に楽譜を読んだときには、どうにも締まりのない作品だと困り果てたものでした。

 これのどこが「クリスマスの夜」なのか、なかなか理解できなかったのですが、こちらのクリスマスの夜を想像していて、なるほど、最初の活き活きとした1楽章は、家族が集い、子供達が喜ぶ、クリスマスの夜のパーティーに違いありません。やがてそれが終わり、星のまたたく夜空のもと、クリスマスの奇跡が染み透るような祈りの歌に導かれ、そして、夜明け、遠くの空が本当に少しづつ白んできて、鳥のさえずりがあちらこちらで聴こえはじめ、空全体に朝焼けが輝くところで作品は終っているのでした。

 そんな全体のプロットが見えた瞬間、カスティリオーニらしい、澄んだ山に広がる朝のほろ苦い空気から、彼が愛したチロルの切り立った山々のシルエットや、そこにこだまする鳥の声が鮮明に聴こえてきて、逆に楽譜に書かれた情報のうち、何が本当に重要なものか、漸く確信を持つ事ができたのでした。

2003.2.26

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 しかし、その澄み切った空気を表現するためには、カスティリオーニの楽譜の指示に忠実に従っても、到達出来ないのがすぐに分かりました。
 彼の強弱記号の指示はとても大雑把ですし、自分の裡で完結した想像力を、彼が楽譜に精確に書き記すことは出来なかったでしょう。これは、私自身、作曲をしていて同じような傾向にあるので、分かるような気がします。
 ただ、本当にどこまで踏み込んでその表現に肉薄することが許されるのか、戸惑いを覚えたのも確かです。

 偶然、この仕事に出かける直前、カスティリオーニの生前のインタヴューのヴィデオを見る機会があり、自分にとって大きな助けとなりました(私自身は、彼とは生前一度しか言葉を交わしたことがなかったのです)。
 いわゆる、杓子定規な学識論を翳す作家ではなく、ほとんど音楽に対し、溢れる喜びをこらえられない純真な子供のようでした。

 まだ日本で学生をしていた頃、カスティリオーニの「マスク」を皆で試演したことがありますが、ただの音の洪水に聴こえました。
 コラージュ音楽で、複調でもあり、音素材そのものは単純なところは、この「クリスマスの夜の小協奏曲」も同じです。

2003.3.23

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 当り前と思われるかも知れませんが、例えばフーガを弾くときと同じように、もし全ての主題、副主題を明確に聞かせすぎると、結局全てが平板になってしまいます。特に対位法的に書かれた作品を、単純に対位法的に聞かせると、音の方向性が見えにくくなります。

 同じことが、こうしたコラージュ音楽や、複調の音楽でもいえると思います。
 複調は、もちろん現代音楽に限らず、アイヴス、ストラヴィンスキ、ヴァレーズやミヨーを初めとする、いわゆる近代音楽の多くの作家をも含むのですが、同時に鳴る調性を同等に扱うと、やはり同じように音楽の方向性の欠如を生みます。
 常に、音楽には或る一定のヒエラルキーを与える必要があると思います。
 同時にヒエラルキーとは何か、と考えてゆくと、必然的に、音楽の方向性が見えて来ます。

 どんな音楽でも対旋律は主題と同等に扱われるべきではないですし、主題を提示する部分と、主題を分解し、フガートやゼクエンツを形成してゆく部分は、全く違う音楽的な要素をもっているのですから、内包される音楽の速度も(言い換えれば推進力)、方向性も当然違ってきます。

2003.3.23

47)

 無調の音楽の和声にも、ドミナント的な意味を帯びる和音と、トニカ的な意味を帯びる和音が存在することもあります。
 ドミナントとトニカほど歴然としたものでなくとも、どのような音楽であれ、基本的に音楽に呼吸は必要ですから(一部の現代音楽は別ですけれども)、音楽の弛緩と緊張を与えるスペースを忘れるべきではありません。
 どんなに音楽が対位法的に交錯していようとも、音がふっと緩まる(つまり無意識に感じるフレーズの終わりの部分です)瞬間は、探し出せるはずです。

 そうやって、しらみつぶしに音楽の素材を読み返してゆくと、自然に見えてくる音の流れというものがあって、それを実現するのが正しい演奏の姿だと思うわけです。
 カスティリオーニも同じで、昔「マスク」を演奏した時は、一体何が主体であり、何がその上に副次的に付随するもので、どの調性を浮き立たせなければいけないか、見極めることが出来なかったのだと思います。

2003.3.23

48)

 折角の機会ですし、「クリスマスの夜の小協奏曲」に関して、具体的な例を幾つか書いておきましょう(少なくとも桐朋の図書館には楽譜があったのを記憶しています)。
 作品は3楽章形式。Allegretto Vivace-Molto Adagio-Allegretto
 1楽章と3楽章の主題は特に関わりがあるわけでもないのですが、似たような印象を与えます。主題の提示がひとしきり終わり、フガート(もしくは簡単なオスティナートによるストレット効果)が挿入されるのも1楽章と3楽章に共通しています。

 細かく書き始めると切りがありませんので、簡単に書きますと、1楽章、3楽章ともに、基本的な3拍子のスタンスがしっかりと聴き取れるだけでも、音楽が見違えるように活き活きとしてきます。
 前にも書きましたが、1拍から3拍に向けて、音楽が軽くならなければいけません。それは旋律に限ったことではなく、特にオスティナートや伴奏楽器をケアすることで、聴こえ方が変わります。

 1楽章なら冒頭の旋律だけでなく、A以降のオーボエのリズムを、いかに活き活きと3拍子に聴かせられるかが、とても重要になります。
 こんなことは、クラシックなら当然なのですが、それをカスティリオーニに大胆に使えるかどうか、がカギなのではないでしょうか。

2003.3.28

49)

 3楽章の2番オーボエのカッコウの主題、これはオリジナルでは全てテヌートが書いてありましたが、敢えて、一つ目のテヌートは全てホワイトで消し、そこにスタッカートをつけました。この素材はB以降、低弦に移行しますから、オリジナルでは何も書いてなかったところを、全てスタッカートとテヌートを附加します。そうして、Cの4小節前に1番オーボエにカッコウが戻ってくるときも、忘れずに同じアーティキュレーションをつけますが、この4小節間は、ヴァイオリンのほんの小さなカデンツァなのを忘れてはいけません。ですから、Cの5小節前で軽くリタルダンドをして、自由にこのヴァイオリンを弾けるようにしてあげると、なぜこの挿入句があるのか理解できます。Cの1小節前のヴァイオリンI, IIのQuasi Fの部分は、正にそこからテンポを戻す役割があります。
 アクセントがあるからといって、音楽を固くする必要はないと思います。あくまでも、これはスケルツォーソな、ちょっとしたいたずら心を表したいのだと理解しました。

 何より、Cの4小節前からのCナチュラルの和音は、そのままCの部分第一拍まで変わりません(ここでは第七音が附加されていますが)。
 同じ和音が続いているところで、殆ど無造作にこのQuasi Fを弾かせると、Cからのデリケートが活きてこないのですね。私はこのQuasi FはmPに書き換えました。

2003.3.28

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 Cの部分から2小節にわたるオスティナートが始まります。当然ながら、まずこの2小節ごとのフレーズを明確にする必要があります。そのなかで、耳にはハ長調に附加音が乗ったように聞こえるこのオスティナートを、より調性的に聞かせることにしました。
 つまり、1小節目は2拍が軽いドミナント的な役割があり3拍で偽終止的に解決し、2小節目は1拍目のドミナントが2拍目の偽終止的な和音と3拍目の第二転回系的な和音に吸収されることを理解すると、このオスティナートの聴こえ方も変わります。

 ここにはmFと書いてありますが、このデリケートな音色を活かすためにも、ファゴットとオーボエの旋律を浮き立たせるためにも、弦楽器はPに書き換えました。何より、ヴィオラの裏プルトを少し際立たせ、チェロの裏プルトは抑えて、コントラバスを浮き出すようにすると、とても美しくなります。

2003.3.28

31-40 51-60