31)

 そう言えば、彼が2000年に亡くなった直後、私の身の回りには一寸した奇遇がついて回りました。
 彼が亡くなる一月程前、当時私が住んでいた家を明け渡さなければいかなくなり、かなり絶望的な状況の中、部屋探しをしていましたが、突然、本当にひょんな事から、今住んでいるボルガッツィ通り44番地の物件が転がり込んできました。後、三日も遅れていれば、住居不法占有みたいな門で数日は冷や飯を喰らう処でした。

2002.7.16

32)

 それから暫くして、ドナトーニが亡くなった日の午後、マリゼルラが泣きながら電話をしてきたとき、もう間に合わないかと焦っていた自分の仕事の譜読みが一段落して、漸くシャワーを浴びている時でした。

 誰もいない霊安室に駆け付け、ふと亡骸の足下を見ると、44という金属の番号札が載っているのに気が付きました。もちろん、ふってわいたように手に入った自分の新居の番号をすぐに思い出しました。
 その二日後から、私は一ヶ月近く、ずっと演奏旅行に出かけなければならず、彼の御葬式の時刻には、飛行機の中で手を併せていました。

2002.8.16

33)

 奇妙な事が続いたのはそれからで、ゆく先々のホテルの部屋番号が、いつも44にかこつけた番号だったのです。224とか213とか、これは正にドナトーニが生前大好きだった数字遊びなので、偶然とは言え、最初は少々驚きましたが、暫くするとすっかり愉快な気分になりました。

 それまで、44なんて随分縁起の悪い数字だと思っていたものが、以後、反対に縁起を担ぐ数字に感じられるようになりましたから、人生不思議なものです。

 13人の奏者の作品の写譜が終わると、写譜のお礼に1300グラムのチョコレートを差し入れたりしていた位ですから、まあ、似たようなものです。

2002.8.28

34)

 とは言え、自分が演奏家としてドナトーニの楽譜を真面目に眺めたのは最近のことです。
 Spiri, Refrain I, Etwas Ruhiger im Ausdruckの三曲を演奏する機会があり、今までとは全く違う視点で楽譜を眺めることになりました。

 作曲の手法から見ると、Etwas...の自動書記時代の作品と、いわゆるドナトーニの書法に到達したSpiriは全く違う印象でしたが、演奏家として作品を分析し、音符への指示の癖などを見てゆくと、案外に近い存在に思えてきました。

 現代音楽の演奏スタイルについて論議を始めれば、それだけですっかり時間がなくなりそうですが、楽譜に書いてあることをとにかく実行する演奏家と、楽譜に書いてあることから自分との距離を測り、自分の音楽として呈示する演奏家がいると思います。

2002.8.29

35)

 前者は作曲家の言葉が絶対であって、同時に責任を全て作曲家に帰してもいますが、後者は演奏の責任を演奏者がとることを前提として、より主観的に音楽を捉えることになります。
 どちらかと言えば、自分は明らかに後者ですが、ただ感傷的に音楽を仕上げるのは鳥肌が立ちますので、出来るだけ楽譜から多くの情報を得て、音楽を有機的に成立させようと努力します。

 ドナトーニの作品は、一般的には非常に無機的に捉えられている気がします。
 特にSpiri以降の後期の作品は、スタイルも非常に軽快ですし、縦が合っていて、少しでもテンポが早い方が好まれる風潮があるのには、多少疑問を覚えます。

 今回、Spiriを演奏するにあたって、杉山ならドナトーニにも詳しいだろうと頼んできた演奏者達と、初めはなかなか理解し合えませんでした。彼らが普段聞き慣れているドナトーニの演奏を想像していたのですから、当然でもありました。

2002.9.19

36)

 普通全く聞き取ろうともしない、全体の構造を何とか明確にする為には、特に中間部から後半、個人的には展開部と再現部と呼んでいた部分のダイナミクスを大きく変化させました。
 一つ一つのパネルを一つのフレーズとして明確に認識させることで、最初から最後まで8分の7拍子で書かれた作品が、実に豊かな変拍子を浮き上がらせました。

 第一に、呈示、展開、再現としてこの作品を把握することで、全体の方向性が実に明確になります。
 呈示すべきものは何か、そこから何を展開させてゆくのか、何を再現し、それを引っ張ってゆくエネルギーはどこにあるのか。
 主題はどこにあり、副主題はどこにあるのか、それは副主題なのか、オスティナートなのか。
 一連の和音の同じ連結は、有機的に主題性を帯びるべきか否か。

 それらの命題は、特に中間部から再現部において、実にスリリングな意味を持ってきます。
 演奏家たちがそれを理解した途端、音楽が実に有機的に、独自の呼吸とともに輝き出したのには演奏家ともども感激しましたし、聴き手も知らなかった側面に触れ、興奮していました。

2002.9.25

37)

 Etwas...も全く同じだと思います。
 この作品も、主題の呈示があり、それを展開させる換わりに分解し、そして融解させ、変態した主題が呈示部と同じく、最後にほぼ2回繰返されるわけですが、「ひそやかに」という題名に準じて、殆どの演奏は、最初から最後まで、全く均等に「ひそやかに」演奏する慣例があります。

 本当にそうであるべきでしょうか。ここに疑問を呈したいと思うのです。
 ドナトーニはPP, PPP, PPPPと三種類のダイナミクスを使い分け、特に弦楽器には細かく音色の変化が指定されています。
 ここでは、PP, PPP, PPPPの指示は、明らかにダイナミクスだけでなく、音色やエクプレッションの指示を含んだ、より有機的な指示として理解されるべきではないでしょうか。

2002.9.29

38)

 初めから音量を抑えて、萎縮した音色で弾かれては、呈示部のシェーンベルグの引用が生きてこないと思うのです。
 3連、2連、5連、7連、5連、2連、3連とシンメトリーに構築された7小節の素材が有機的に組み合わさって、初めて、素材群から構成された20小節にわたる呈示部が意味を成すように思います。

 この20小節の一つ一つのイヴェントは、非常に明確に性格づけられていなければ、この20小節にわたる息が4回繰返される事実を認識させることも出来ないでしょう。
 4回繰返される中で、少しづつ事象が分解されてゆくことも、呈示がよほど明確でなければ分らないように思うのです。

2002.10.2

39)

 溶解してゆく間も、これら音量、音色、表情が明確に分離させることで、今までとは全く違う側面が浮き上がります。
 特に、101小節以降、連符のシンメトリーは、元来4拍子が持つ性格と共に明確に知覚されるべきです。
 一見、無機的に見えるこの連符群も、皮を剥ぐと、3拍子系、4拍子系(2拍子系)そして割り切れないその他の音群に分けられます。当然のことながら、これらを演奏者が理解しているかどうかは、最終的に聴こえ方に大きく影響します。

 例えば、101小節は、22連と28連、21連、15連、13連が同時になりますが、22連を11連2回、28連を7連4回と理解して、4拍子の小節の基盤を作り、その上に載せるように21連と15連、13連をかぶせると、全く聞こえ方が変わります。

2002.10.20

40)

 4拍子の性格である、1と3が強拍で、2と4が弱拍だというのも、この場合非常に重要で、丹念に互いを有機的に関係づけることで、最終的に、この複雑な連符群から聴こえてくるものを、明瞭な4拍子とすることが出来ます。
 特に115小節は、ピアノを除いて、全て4拍子に分割出来るので、実に鮮やかな拍感を浮き上がって来るのには驚きました。

 111小節以降、フルートが一人、最大音量であるPPで14連(7連を4回)吹き続けますが、これに一種のソロ的な意味を持たせることも可能でしょう。
 他楽器が少しづつ消えて、フルートが孤高に見える瞬間がありますが、ここでただ気弱にPPを演奏するよりも、むしろこれが作品の最大音量であることを認識して演奏することで、非常に緊張度が増すように思うのです。

2002.11.1

21-30 41-50