21)

 93年にシエナで暮らした2ヵ月は何だったのかと思ったりします。
 イタリーにいながら確かにイタリーの時間でなくて、空洞のような妙な時間でした。
 明るく乾いていて、緑と丘が連なって夕日がそれを染め、劇場の俳優よろしく、一人一人与えられた役に甘んじ、かつ演じているような、だから俯瞰すると全く不変の時間だったのではないでしょうか。
 そこにテレビ局が取材に来て、時間の一部を切り取って持ち帰る。
 7年経って見返してみて、あの時間は今のどこにも繋がっていない気がして、儚い心地に襲われます。

2002.4.12

22)

 ヴィデオには残っていませんでしたが、その時ドナトーニが、あそこに日本人がいるから質問してみろと言い、ドナトーニ先生の授業は如何です、などと突然マイクを向けられ、大いに困惑した記憶があります。
 しどろもどろで、日本でこのような授業を受けたことがないので、とても勉強になります、みたいな当たり前の応答をしたはずだけれど、当時の語学力で相手にそれが通じたのか、今思えばまったく心許ない気がします。
 ほぼ10年前の時間をこうして眺めると、まるで鏡のなかで揺れるダリの時計のようです。
 全てがあの絵のように、溶けだしているようにも見える。

2002.4.25

23)

 記憶というのは面白くて、過去を思いだそうとするとき、過去の1点を拾い出してきて、まるでウィンドウを開くように、その中に流れていた時間が見えてくる。
 記憶をたどる、と言うけれど、正に言葉どおり、一つ処を思い出すと、そこから信じられない勢いで記憶は自在にスクロールしてゆくのですね。
 話の腰をすっかり折ってしまった。
 ドナトーニの話が出たついでに、最後の二つのオーケストラ作品の補作に関わった時の話でも書いてみましょう。

2002.4.30

24)

 一体どういう経過でドナトーニのPromの補筆、完成の仕事が回ってきたのか、良く覚えていませんが、当時、ミラノ郊外のソロモン通りにあったリコルディのマッツォリーニから電話を受けた記憶があります。
 Promの作曲途中でフランコが糖尿病の発作にやられたのは知っているだろう。
 その後で、まだ半分昏睡状態のまま彼は取り敢えず作品を完成したが、とても理解不能なんだ。
 演奏可能なように、なんとか形にしてもらえないか。
 こんな依頼だったような気がします。

2002.5.26

25)

 それから数日して、大きな円筒に入った彼の自筆譜が届いた時には、思わず目を疑いました。
 彼が発作を起こして昏睡状態になる直前まで、しっかりと彼の音が並んでいるものの、その先は、まるで幻覚症状か夢遊病のまま鉛筆を走らせた、とでも言えば良いのか、見ていて気分が悪くなるような五線譜が送られてきたのです。
 音符がどこに書いてあるのかも分らず、楽器も殆ど不明で、よって声部記号も不明瞭。
 音符が書いてある分にはまだ良い方で、殆ど白紙状態のページも沢山ありました。
 ひたすら、異常な精神状態のエネルギー、錯乱状態のパトスの迸りが書きなぐられていて、戸惑いました。

2002.5.29

26)

 とにかくところどころに、虫が喰って裏側が見えたように、そこだけ身悶えた音符が書き付けられているところがあり、恐らくその辺りに彼が何かを聴いたことだけが分るのです。
   唯一助けだったのは、最近のドナトーニの作品は、平行和声と上下対照などの某かのシンメトリー構造を持つ和音構造によって書かれていたので、恐らくこんな音が聴かれる筈だったであろう、という音を、恐らく核音だったであろう、もしくは唯一読める音符などを手がかりに、一つ一つ組み立てていった覚えがあります。
 驚くべきことに、そうして少しづつ再現作業を始めてみると、彼がほとんど錯乱状態のまま書き付けたであろう音が、ある一定の規則性を現わしてくるのです。
 偶然かも知れませんが、あの瞬間、意識して行う技術は何時しかその腕に吸収される、とくり返していた、彼の言葉を思い出しました。

2002.6.5

27)

 ただ、音の数は絶対的に少なくて、理解しているのかいないのか、不自然な長音や休止符が並ぶようになり、たとえそれが音楽的におかしくとも、少なくとも楽譜に残されている貴重な情報ですから、それを変更するわけにもゆかず、そのまま組み立ててみると、世にも奇妙な作品が出来上がりました。
 最近、実際の録音を聴きましたが、最後は何とも形容のし難い沈黙と長音ばかりになって、突然完結する、そのままの作品でした。
 あの時、一応楽譜を完成させてドナトーニに見せたところ、その頃には大分精神状態が普通に戻っていた彼が、以前自分で書いた錯乱した楽譜と、私が書き直した楽譜を比べながら、自分が本当に情けない、と涙を浮かべていたことを良く覚えています。
 自分はこんなだったのか、知らなかった、許してほしい、と言われて、皆がそんなことはない、生きていて良かったではないか、と励ましたのでした。

2002.6.16

28)

 ドナトーニは生前、自分には音楽性というものが欠如していて、だから音楽院のヴァイオリン科も落第したのだ、と得意げに話していました。
 ちなみに、当時のヴェローナの国立音楽院のヴァイオリン科(と言っても恐らく中学生か高校生位の時でしょう)のクラスメートが、今のマンゾーニの奥さん、エウジェーニアで、当時からドナトーニの最期まで、変わらず親しい友人でした。
 二人とも揃ってひどいヴェローナ訛りなのが、端から見ていると滑稽でした。
 ともかく、自分には音楽性がないから、作曲なんかやっているのだ、という言い種で、これはイタリー流の皮肉でもあるのでしょうが、彼の本質を逆に良く言い当てているとも思います。

2002.6.29

29)

 Promの錯乱した筆跡を眺めていると、彼の裡に明確に音楽が息づいていた事を痛感します。
 良く言われますが、ドナトーニとドナトーニ風の無数の作家達との根本的な違いは、同じ厳格な作曲の手段を用いながら、多くのドナトーニ流作家は、ドナトーニの活き活きとした表現がどうしても実現出来ない。
 分かりやすく言えば、ドナトーニの音楽には、枠がある筈なのに、結局無い。
ドナトーニ流の音楽は、その枠の中でコンパクトに書かれた、見本品のようなもの。

2002.6.29

30)

 或る時、彼にどんなクラシック音楽が好きなのか尋ねたことがあって、最近、良くワーグナーを聴いている。作曲しながら、ワルキューレを聴くのが好きだ。後は、ロッシーニ。彼の遊戯性と洒落心は素晴らしいよ、そう答えられて、しばし驚いたことがあります。
 一体、ワルキューレを聴きながら、どうやって作曲するのか尋ねると、出来るだけ間違えないように気をつけている、と答えてくれましたが、これは案外素直な告白だったのかも知れません。
 彼にとっての音楽とは、我々が思っている部分とは、少し違ったのでしょうか。
 モーツァルトの数々の逸話を思わず思い出しますが、冗談好きなドナトーニの事ですから、その辺りを予め計算に入れた、ちょっとした洒落だったとしても、まあ、おかしくはありませんが。
 ただ、ドナトーニの音楽に枠がない、と言うのならば、彼があれだけ固執した数字遊びや規則性は、彼の音楽の本質とは、実は余り関係なかったのかも知れません。

2002.7.14

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