11)

 演奏後、楽屋に駆けつけ「イヤァ素晴らしかった」と話しますと、破顔一笑、フランコがどうフレージングして欲しがったか、如何に素晴らしいか、バッハとの共通点は某とか、調性感はどうだ等と、得々と話出しては止まりませんでした(余程、自分の解釈に自信があったのでしょうネ)。
 音楽の歴史は、こうして作曲家の手から少しづつ離れて培われて来た訳でして、そんな一コマを垣間見た気が致しました。

 早く弾けないならば、ゆっくり弾けば好いだけの話で、ゆっくり弾くなりの美しい輪郭が描けば好いだろうという、謂わば開き直りでもあります。
 同じ旅程ながら、飛行機を使うと見えないものが電車を使うのと見えて来る。
 電車からでは気が付かない風景が、自転車なら気が付くかも知れないし、歩けば全く違う印象を持つかも知れない。
 マァ、そんな処なのではありませんか(尤も、あそこまで開き直って大胆に出来るのも、彼がイタリー人だからかしらと妙な感嘆に浸りましたが)。

2002.2.11

12)

 ゴシップ好きの向きの為、一寸補足致しますと、この「Rima」なる作品、元来ドナトーニ後半生の良き伴侶(つれあい)だったピアニスト、Maria Isabella De Carliさんの為に書かれたもので、確か付き合い出して間もなく作曲したのではなかったかしら(こんな逸話を聞かされると、途轍もなくロマンティックな薫りが漂って参ります)。

 Maria Isabellaという彼女の名前を、普通皆はMarisellaと繋げて発音しますが、もう少し砕けると単にMary(マリー)と英語風に呼びます(これがメァリーにならない処が味噌であります)。
 つまり「Rima」は「Mary」をひっくり返しただけの題名だったのですね(勿論「韻」なる建前の伊語の意も存在しては居りますが)。

2002.2.14

13)

 かかるマリゼルラ女史、僕が知るイタリー女性の中では最も善く気の効く、何となく日本人女性を思わせる才媛でありますが、躯は割合小さくて、何処となくすばしこい小動物の様でもあります(因みに、ドナトーニさん曰く、マリゼルラ女史の顔は鴨だかドナルドダックだかに酷似しているそうで、旅行の度に購入する彼女への土産物は鴨の置物と決っていました。尤も、鴨とドナルドダックでは随分按配が違う様でありますが。やはりイタリー人は得てして大雑把なのです)。

 さて、その彼女がこのRimaを弾く段になりますと、これは恰も鹿がぴょんぴょんと軽やかに駆け抜ける様な明るさに満ちていて、過日この作家の追悼演奏会で彼女の演奏を聴いた折など、ドナトーニ作品という意識が一切無いまま、まるでスカルラッティのソナタを聴く様にさらりと弾き終わり、あれはあれで圧巻でありました(尤も、後で楽屋を訪ねるとマリゼルラ女史はすっかり泣き腫らしていましたが。演奏にはそんな風情を微塵も見せないのですから、やはり大したものです)。

2002.2.20

14)

 カニーノ氏とマリゼルラ女史は、長らくミラノ国立音楽院ピアノ科の同僚通しだった訳ですが、演奏スタイルこそ全く違いながら、まるで現代作品らしからぬ、実に肩の力の抜けた演奏をする処が共通していて、実に羨ましく思ったり致しました。

 余談ですが、過日マリゼルラ宅に御邪魔した折、ピアノの上に積まれたM.クレメンティやらロッシーニ、スカルラッティの楽譜に深い感慨を覚えました。
 彼らにとって、ドナトーニとクレメンティとの間に、絶対的な境界線など存在しないに違いありませんが、こればかりは我々には到底辿り着けない境地でありまして、マァ単純に羨む程度に留めておくのが好いのでしょうネ。

2002.2.26

15)

ところで、マルゼリラの誕生日だったので、一月初旬にお祝いでもと電話をしますと、年末年始はカナリア諸島で過ごした、と嬉しそうに話してくれました。
近況を伺いますと、どこにドナトーニ作品を聴きにいった云々の話ばかりで、彼女のなかに息づいているフランコの重さを改めて感じました。
年末年始と言えば、日本も欧州も家族との団らんのための時間ですから、彼女が一人家居たくなったのは当然でしょう。

 最近聴きに行ったドナトーニのオペラ「アルフレッド・アルフレッド」の話になり、生前作曲者本人が舞台に上がっていたのだが、新しい演出では俳優を使っていて、偶然なんだけれど、俳優がフランコの長男、ロベルトのそっくりなの、びっくりしたわ、と話してくれました。
 ロベルトはとても父親似ですから、結局舞台上の俳優は、さぞやフランコそっくりだったことでしょう。

2002.3.1

16)

 昨年の秋だったかマリゼルラ宅に遊びにゆき、手料理などに舌鼓を打ってから、様々な折に触れて撮られていた生前のフランコのヴィデオを見せてくれました。
 指揮者のエサペッカ・サロネンは、若い頃ドナトーニに作曲を師事しようとシエナにやってきた後、結局指揮を本業に選んだわけですけれども(もちろん作曲も続けていますが)、ドナトーニとの交友は彼の最期まで続いていました。

 ドナトーニの遺作であるオーケストラのための「Esa」(2000)は、ロサンジェルス・フィルのために、サロネンから委嘱された作品でした。

 知りませんでしたが、ドナトーニは生前、サロネンから招かれてフィンランドで作曲の講習会をしており、妙な英語を話しつつ作曲のレッスンをしている老作曲家の姿が、フィンランドのテレビによって収録されていました。

2002.3.13

17)

 ドナトーニはずば抜けて頭の冴えた人間でした。
 彼が書き残した文章が、全てを物語っているのですが、そのうちの一つを翻訳しようと手掛けたまま、難解で遅々として進まず、かたちにしたいと思いつつ手がつけられないでいます。

 ところが、彼のフィンランドでのレッスン風景は、難解とは程遠いもので、殆ど文章になっていない英語と身振りで、彼の考える音楽を生き生きと表現していて驚きました。

2002.3.16

18)

 数々のヴィデオを眺めていて、思わず声を上げそうなりました。
 RAIが収録した数々のヴィデオの中に、1993年、初めてシエナでドナトーニのレッスンを受けた時のインタヴューが収められているではありませんか。

 知っている顔が並んでいて、あの時RAIが一日ドナトーニを取材に来たことを思い出し、懐かしさに胸が詰まりました。
 イタリーに住んでいながら名前を見かけることもないけれど、皆元気でいるのか、どうしているのか。
 忙しさなのか、あの頃の自然な時間のながれを、すっかり忘れていました。

2002.3.28

19)

 思えば、イタリーに住み始めた当初、随分頑張っていたように思います。
 95年のことですから、今から7年前になります。
 一介の留学生として勉強を励むことに、抵抗を覚えていた記憶があります。

 見栄だったのかも知れないし、奨学金が1年分しか保証されていなかったから、もっと生活に必死だったのかも知れない。
 今から思うと、何をやっていたのかと笑いたくもなるけれど、ただ留学生として勉強だけしていたら、今の自分はなかったのかも知れないし、どうなのだろう。

2002.4.2

20)

 時としてイタリーに留学したいと相談を受けることもあるけれど、余程しっかりしていない限り、留学先としては薦められる国ではないと思っています。
 表面的に愉しすぎるのかも知れない。

 今から思うと、そんな落し穴を薄く予感していたのかも知れなくて、ぬくぬくとした穴へはまらぬよう、全神経を集中していた感じがします。
 良い部分も沢山あって、少なくとも競争社会でないことは大きな救いでした。
 お蔭で、個人主義が身に染みてしまったかも知れないですけれど。

2002.4.5

1-10 21-30