山本の返答(3)1998.08.08

三輪さん、お返事遅れて済みません。

> 人類にとって、いや、一般の現代人にとってさえ、「作曲家」などという
> わけのわからない立場で、西ヨーロッパの伝統的な記譜法と美意識で、
> 弾かれるべき音を選び指定し、演奏家という職業の人に聴衆が集まるべき
> コンサートホールという場所を使って弾かせる・・ということがそんなに
> アタリマエで当然のことか、という意味あいです。

ただ、当たり前かどうかはともかく、いや、当たり前でないとしても、そのような場に当たり前とはとうてい思えない爆弾のような音楽を投下する、という手はあります。もちろんこれは、当たり前さを否定する手段という意味なので特殊なんですけど。以前ある人が鈴木治行氏の音楽をそう表現していました(それに賛成するかどうかはまた別の話ですけど)。

> 二重構造とは要するに「古い皮袋に・・」という諺通りのことなのですが、
> 皮袋が「ゲンダイオンガクのコンサートという形式」だ、と言っているのでは
> 必ずしも(そうかもしれないけど)ありません。問題にしているのは
> そのような発表の形式、世界に提示する様式が無言のうちに要求する内容的
> な拘束です。

確かに中身が新しいワイン(または、例えばビール)だとしたら、たぶん古い革袋には入れないでしょう。それに気づけば拘束を解き放つ手段を真剣に考えるはずです。でも、もし中に入れるのが何かの木の実だとしたら、それはそれで古い革袋でも代用は可能なんですね。作品も、それを発表する形式が今目の前にあって、表現上何の支障もなければ、特にそれを否定する理由はないわけですよね。これは別段保守的な考え方ではないと思うんですけど。

ちなみに、テンプスの場合は「はじめに会場ありき」を認めなくてはなりません。ご存じのように、社会的な理由です。ただ、全員がテンプスだけを表現の手段にしているわけではないので、あそこでやることが可能なのです。テンプスが抱える二重構造によって何らかのフィードバックが絶たれていても、他の場でフィードバックを求めることは出きます。また、テンプスだから得られるフィードバックというものもわずかながらあると思うんですよ。

> 同業者だから様々な事情が見え、わかり、自分も同じ問題をかかえています。
> でも一歩退いて今起こっていること(例えばひとつのコンサート)を見ると
> どう考えても成り立っていない、聴衆はのってない、エキサイティングじゃ
> ない・・・ただ、そのことです。

同感です。でも何らかの方法によってエキサイティングになったとしたら、それはもう古い革袋だし、コムロになっちゃいますよ。

山本裕之

← みわの感想(3) | みわの感想(4) →

往復書簡インデックスに戻る