みわの感想(3)1998.08.04

>なんだか面白い展開になりそうですね。僕も「根性を入れて」書くつもりです。

「けなげ」な挑発にのってくれてうれしいです。

>> そうです。このような(アタリマエ)のことをまだいう人はもうそんなに
>> いないと思います。試みがすべて失敗したのかどうかは知りませんが
>> 完全に無気力状態に陥っているようにみえます。これからもそうでしょう。
>
>う〜んと、これはテンプス(または山本)のことですか?それとも
>世間の話……。

あ、ごめん。わかりにくかったですね。世間一般のことです。
ぼくが今まで、そしてこれから話す対象もとりあえず日本における現代音楽一般についてです。

>確かにそうですね。ちょっと怖いな、と思ったのは、今の日本の経済問題
>とは違って、音楽の世界ではそういった問題を放って置いても、ある程度は
>何とかなっちゃうんですね。それで問題を意識はしていても、非常に遅い
>速度で解決を考えようとする。三輪さんは、そんなのんびりしている場合
>ではない、とおっしゃるわけですね。

ぼくは何でも遅くてはっきりしないタイプです。(意味不明)
自分の問題として考えられるか、が分かれ目です。

>では、三輪さんの「作品を世界に提示して、フィードバックが発生する」
>というサークルを考えてみましょう。
>このサイクルにおいてフォーマットとコンテンツの二重構造があると
>サイクルが機能しないとすれば、逆に言えば二重構造を作らなければ
>成り立ち得るわけですね。このあたりをもうすこし具体的に考えると、
>表現の仕組みが何なのかというものが見えてくるに違いないと思うの
>ですが、漠然としていてよく分かりません。この点、三輪さんはどう
>お考えですか?
>それとも、それはあくまでも観念的で漠然としたものであって、ただ二重
>構造はそれと相容れないのだ,とか……。

いやいや、目に見えない我々の願望や表現を成り立たせている様々な条件というような、難しいことではなく、これは非常に具体的な話です。人類にとって、いや、一般の現代人にとってさえ、「作曲家」などというわけのわからない立場で、西ヨーロッパの伝統的な記譜法と美意識で、弾かれるべき音を選び指定し、演奏家という職業の人に聴衆が集まるべきコンサートホールという場所を使って弾かせる・・ということがそんなにアタリマエで当然のことか、という意味あいです。
ただし、この例は社会的なシステムについてばかりに触れてますが、それだけではなくそのシステムと不可分の関係にある個人(でなくても良いですが)の表現に関する洞察について話しています。

二重構造とは要するに「古い皮袋に・・」という諺通りのことなのですが、皮袋が「ゲンダイオンガクのコンサートという形式」だ、と言っているのでは必ずしも(そうかもしれないけど)ありません。問題にしているのはそのような発表の形式、世界に提示する様式が無言のうちに要求する内容的な拘束です。さらにつけ加えればここで「コンサートという形式」の意味するものは西洋音楽の伝統、世界観、芸術観なども含んでいます。

同業者だから様々な事情が見え、わかり、自分も同じ問題をかかえています。でも一歩退いて今起こっていること(例えばひとつのコンサート)を見るとどう考えても成り立っていない、聴衆はのってない、エキサイティングじゃない・・・ただ、そのことです。
時代の変化のせいにするのもいい、日本の文化政策のせいにするのもいい、教養のない聴衆のせいにするのもいいのですが(べつにTempusNovumのことではありません)、ひとりの作り手としてはそんな理由をきかされても納得できるものではありません。自分がやりたいこと、やっていることがとにかく成り立っていないのだから。

別の言い方をすると、この音楽シーンの中で今の状態を続けでひとりでこつこつと作曲している作曲家(とても才能があったとしましょう)が、おきまりの言い方ですが「100年後に理解される」などということが、ぼくにはどうしても想像できないのです。

みわまさひろ

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