山本の返答(2)1998.08.04

三輪さんへ

なんだか面白い展開になりそうですね。僕も「根性を入れて」書くつもりです。もっともこの猛暑が障壁にならなければよいのですが(おっと、また言い訳モードですね)。

> そうです。このような(アタリマエ)のことをまだいう人はもうそんなに
> いないと思います。試みがすべて失敗したのかどうかは知りませんが
> 完全に無気力状態に陥っているようにみえます。これからもそうでしょう。

う〜んと、これはテンプス(または山本)のことですか?それとも世間の話……。
山本に限っていえば、無気力ではありません。ただ先が全く見えていないだけです。でも先が見えていないというのは健全な状態ですよ。闇雲に何でもしようと思えばできるし、予測の付かないことほど楽しいものはないわけです。世間は……無気力ですねえ。雑誌なんか見ても、ウェブでさえも。

> 山本さんの返事で確認できましたが、ぼくが言ったことはみんなにとって
> 「百も承知」のことでしょう。でもその「百も承知」の問題に慣れっこ
> になってしまっている、これと対決しない限りはぼくらの努力が報われ
> ないことを確認したかったのです。

確かにそうですね。ちょっと怖いな、と思ったのは、今の日本の経済問題とは違って、音楽の世界ではそういった問題を放って置いても、ある程度は何とかなっちゃうんですね。それで問題を意識はしていても、非常に遅い速度で解決を考えようとする。三輪さんは、そんなのんびりしている場合ではない、とおっしゃるわけですね。

ところでフォーマットとコンテンツの二重構造について、私もこれが表現の仕組みであるとは考えません。ただそれは最近の私の思考方法、つまり「構造が明確であるほどその構造を疑え」というあまのじゃくなものの考え方から来るものなので、その点三輪さんと論点がずれています。もし今の自分(我々)の表現基盤を疑うのなら、ただ漠然と、それを乗り越えるものは現時点では思いつかない何かすごいものだ、くらいにしか考えられないのです。当たり前といえば当たり前ですが、上に述べた「先が全く見えない」とはそういう意味です。
その見えない状態の中でなにかしら手がかりを探そうとするときに、例えばヨーロッパの先端といわれる音楽を聴くことや、どこぞの講習会に参加することは、確実で正統的な方法のように見えてしまうけど、それ自体が既製の表現基盤の延長であることを考えると、空恐ろしい(念のため、新しい音楽を聴くことを否定しているわけではもちろんありません)。すると、それに代わるもので自分に適した手がかりになるものなんてホントにあるんかいな?と思ってしまう。すなわち「手がかり」と感じたものはその存在理由からすべて既製のものである……。
この考え方はあまり論理的じゃありませんね。なんだか文章も変になってきた。無視していただいて結構です。

では、三輪さんの「作品を世界に提示して、フィードバックが発生する」というサークルを考えてみましょう。
このサイクルにおいてフォーマットとコンテンツの二重構造があるとサイクルが機能しないとすれば、逆に言えば二重構造を作らなければ成り立ち得るわけですね。このあたりをもうすこし具体的に考えると、表現の仕組みが何なのかというものが見えてくるに違いないと思うのですが、漠然としていてよく分かりません。この点、三輪さんはどうお考えですか?
それとも、それはあくまでも観念的で漠然としたものであって、ただ二重構造はそれと相容れないのだ,とか……。

山本裕之

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