みわの感想(2)1998.08.02

山本さん、

>かなり濃い感想文を、ありがとうございました。もちろん、あの痛烈な
>批判に対して頭に来るわけでもなく、むしろ、今まだこのような意見を
>我々に対して包み隠さず投げつけてくれる人がいたということを再認識できて、
>嬉しく思っています。

そうです。このような(アタリマエ)のことをまだいう人はもうそんなにいないと思います。試みがすべて失敗したのかどうかは知りませんが完全に無気力状態に陥っているようにみえます。これからもそうでしょう。ぼくにとっては「日本の音楽」、「これからの現代音楽」がどうなろうと、とりあえずどうでもいいのですが、自分が表現するにあたってその前にある障壁については考えざるを得ないし、とにかくその立脚点から考えてみよう、という、これはぼくからの提案です。

山本さんの返事で確認できましたが、ぼくが言ったことはみんなにとって「百も承知」のことでしょう。でもその「百も承知」の問題に慣れっこになってしまっている、これと対決しない限りはぼくらの努力が報われないことを確認したかったのです。山本さんの言うとおり、ぼくが紛糾したことを誰もが「意識していない」わけではないでしょうが、この最も大変な問題に対して勇気を持って対決していない。その問題はいつも「聴衆のレベル」や現代音楽シーンの権威、文化予算の話にすり替えられてフォーマットとコンテンツ(ボクが表現したいこと)の二重構造をつくり、フォーマットはそのままにして、とにかくコンテンツだけは自分の満足のいくものをつくりたい、という態度になってしまう。
もちろんぼくにも事情はわかります。
フォーマットを変えようとすることはしばしば「このままでは日本の音楽はダメになる・・!」みたいな話になってウソ臭くなる。でも、でもね、この二重構造自体が一番の問題です。自分の表現を内容と手段みたいに分けることが本当に可能なのか?
いろいろぼくも考えた末、それは違うと思います。
それはもっとうまく表現できたら、とか、自分にもっと才能があったら、ということとは別です。自分が作品をつくってみて、それを世界に提示してみて、何らかのフィードバックが返ってきて・・というサイクルにおいて二重構造をつくることはそれを分断してしまうことです。そのサイクル(サークル)さえ成り立てば聴衆はいくら少なくたって、特定の人達しか相手にしなくたって先に進めるのです。発見があり勇気がわくから。

みわまさひろ

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