みわの感想(4)1998.08.08

山本さん、
今回の対話はつまらない「言い負かしあい」にならず、とても満足しています。これもお互いに信頼関係がしっかりあるからだと思います。それを信じて、今回もおもいっきし、お返事しちゃいます・・

>そのような場に当たり前とはとうてい思えない爆弾のような音楽を投下する、
>という手はあります。もちろんこれは、当たり前さを否定する手段という
>意味なので特殊なんですけど。以前ある人が鈴木治行氏の音楽をそう表現して
>いました(それに賛成するかどうかはまた別の話ですけど)。

それが本当に爆弾として機能するか、爆発する可能性を秘めているかが問題です。そもそもぼくは「これじゃ爆発するわけないじゃないか!」と批判したわけです。

>確かに中身が新しいワイン(または、例えばビール)だとしたら、たぶん
>古い革袋には入れないでしょう。それに気づけば拘束を解き放つ手段を
>真剣に考えるはずです。でも、もし中に入れるのが何かの木の実だとしたら、
>それはそれで古い革袋でも代用は可能なんですね。

なぜ「これじゃ爆発するわけないじゃないか!」といったのか?それは上記コメントにあるような、古い皮袋でも中身が「木の実」ならば大丈夫、と考えるような表現の形態と内容を区別できると信じる(二重構造という言葉をぼくは使いました)発想がそこに残っているからではないか、と指摘しました。実際に上記コメントでも「木の実」は大丈夫でもワインやビールだとまずいかもしれないと告白しているわけです。そんな条件付きの自由の中で本当の「爆弾」など作れるのでしょうか?

>作品も、それを発表する形式が今目の前にあって、表現上何の支障もなければ、
>特にそれを否定する理由はないわけですよね。これは別段保守的な考え方では
>ないと思うんですけど。

「表現上何の支障もなければ、」とありますが、大きな支障がそこにあることがなぜわからないんだ、表現の形式は古くても中身は新しいなんてことはあり得ないんだよ!とぼくは言っているのです。

>ちなみに、テンプスの場合は「はじめに会場ありき」を認めなくてはなり
>ません。ご存じのように、社会的な理由です。ただ、全員がテンプスだけを
>表現の手段にしているわけではないので、あそこでやることが可能なのです。
>テンプスが抱える二重構造によって何らかのフィードバックが絶たれていても、
>他の場でフィードバックを求めることは出きます。また、テンプスだから
>得られるフィードバックというものもわずかながらあると思うんですよ。

もちろんそれなりのフィードバックがあることもわかっています。また、そのフィードバックが大きいのかわずかなのかは問題ではありません。ぼくが問題にしているのは、それが何かに結びついて行くのか?という点です。「何か」とは、同じ現代に生きる人間に訴える何か、世界を違う視点から捉えるきっかけとなる何か、(いろんな言い方ができますが・・)です。それなくして何が表現なのでしょう?そしてこれは決して他者に対して影響を与える何かのことだけではありません。(すこしあいまいかな・・)

>同感です。でも何らかの方法によってエキサイティングになったとしたら、
>それはもう古い革袋だし、コムロになっちゃいますよ。

そこですよ!ぼくが言いたいのは。
今までの会話の本質は、ほぼこの言葉に集約されています。
やってもみない、真剣にやろうともしないで、コムロになる以外に他の方法はゼッタイにあり得ないと信じる短絡的、独善的発想!ゲンダイオンガクの皮袋とコムロの皮袋以外には思いつかない発想の貧困!(それにコムロの皮袋の方がまだオリジナリティーがあり、新しいぜ!)自分(達)で新しい皮袋がつくれないかと考えてもみない怠慢!

一体誰がエキサイティングなゲンダイオンガクはコムロになることに等しいと決めたのですか?少なくともぼくは「それ以外の道はないのか?」と3年も時間をかけて考えています。もちろんそんなに簡単な問題ではありません。そして今回の批判でそのことについて考えてみないか?と誘っているわけです。

そこであなたは、「そんなことできっこない〜!」と言っているだけです。さらに言うなら「そんな必要性はぼくにはない」と言うわけです。

その必要性を感じないならば、(今回のぼくの批判は、この必要性を指摘することで成り立っているので)この話はほぼ一回りした、ということになると思いますがどうでしょうか?

みわまさひろ

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