61)

 作曲に際し、当然ですが、かなり具体的に音のイメージが頭に見えてから作曲にかかりますので、自分の中で聞こえる音を信じていると言えます。
 具体的な音の選択を、自分から切り離して定着しても、実際に音にすると、ほぼ9割方、自分が最初に考えていた音が聞こえてくるのは不思議です。
 これは逆に、自分にとって作曲にあたって一番重要な部分が、細部の音ではないことを反証しているとも言えますが、いずれにしても自分の中にある音を、客観的に定着させ、実現させられる技術を身に付けることが、作曲の基本でしょう。

2004.10.4

62)

 さて、このマージナルな作曲における放任主義的なギャップについて、別の側面から考えてみると、面白いことに気がつきます。
 こうした音楽の全体的な捉え方、和音一つ一つより、むしろ音楽の方向性、呼吸の伸縮といった側面により興味が向いたのは、イタリアに住み、一からクラシック作品を勉強しなおしたことと無関係ではありません。これはカスティリオーニのところで、前述したとおりです。
 機能和声を和声学的な問題としか認識していませんでしたが、ドミナント機能は音の空間を広げ、息を深く吸い込み、トニック機能ではそれが落ち着くべきである、という当り前のことを教え込まれ、同時に浮き上がってくる、楽譜上の音楽としてではない、音楽それ自体が宿す、活き活きとした表情に興味をもったのです。
 もちろん、細部の音に重要性がないとは思っていません。ただ、細部の音は、発音される瞬間に、発音されるものの中で充足した意味を持っていれば充分なのではないでしょうか。

2004.10.15

63)

 ドナトーニのところで書いた、このドの音の裏側にはどんな意味があるのか、という話ですが、結局、自分でもイタリアに暮らしていて、音は相互関係においてしか意味をなさないと思うようになりました。
 これは西洋的な音楽の把握かも知れませんが、考えてみれば、わたしたちだって、人と人の交わりがなければ、こうして生まれてきてはいなかったでしょうし、音楽だって、人との交わりの産物には違いないわけで、自己完結はしようがないとも思います。

 クラシックでも、ドミソは何の和音か、と問われても、それだけでは何も判断出来ない。それが例えばファラドやソシレの和音につながって、そこに初めて音の方向性が見えてくるのです。
 当然ながら、ドミソに音の広がりがあって、ファラドに収束されれば、それはF durとして認識されるべきだし、ドミソからファラドに音楽が広がれば、それはCdurのトニックからサブドミナントへのゆるやかな呼吸の流れが聞こえてきますから。
 何が音楽なのかと考える時、こうして音と音との間に、おのずと生まれくる相互関係と、その相互関係が連なり生み出される、方向性と運動性、その合間に息づく空間とか空気のようなもの、そのエネルギーなのではないだろうかと思うのです。

2004.10.26

64)

 表面的な音現象というより、むしろそこに内在する何かをより意識化させること、それが近作における一環したテーマになっています。
 ですから、西洋的な音楽の把握を、東洋的に改めて見つめ直しているような気もします。
 昔、やっていたように、楽譜を音符で埋め尽くし、音楽の呼吸を窒息させるのではなく、その音符の裏側をより明確に演奏者に伝え、生まれる音現象は演奏家にゆだねるくらいのあそびを持たせて、作曲したらどうなるのか、そんなことを考えながら、ここ数年、作曲しています。

 たとえば、ヴァイオリンは子供の頃からずっと弾いていて、弾く感覚は躯のなかに残っています。ヴァイオリン奏者の意識として、音符が先ずあって、そこに感情移入して、自らを表現するのが普通ですが、実際のプロセスとしては、先述したように、旋律の裏側に息づく呼吸を殆ど無意識に知覚して把握し、消化してから、フレージングや方向性を作って、自分の音楽として表現するのです。
 ところが、わたしはそのプロセスを敢えてこわしてみたのです。
 「書いてある旋律の裏側を無意識に知覚する」ことなしに、奏者は、初めから皮をはがれた、素のままの音楽と対峙させられるわけで、この出会いがかなり当惑をうながすものなのは、承知の上です。

2004.11.3

65)

 指使いと弓使い、音楽的なフレーズ、方向性、表情記号等は、かなり細かく定着されていますが、カンタービレと書いてあるフレーズには、指使いと揺れ動くポジションが指定されているだけで、具体的な旋律は敢えて明記されていません。
 自分にとって重要なのは、そこで奏者がカンタービレと意識してフレーズを鳴らすこと、その意識が聴き手に伝わることにあるので、旋律そのものが重要ではないという、パラドックスのテーゼでしょうか。
 逆にいえば、音楽的が内包しているフレーズや呼吸が大切であるとすると、実際にそこで用いられる音素材は、古典的には指定されている表情記号と矛盾して聞こえることすらあるでしょう。自分が考えていることと、ラッヘンマンの考えていることを比較すると、同じような音が生まれるのに、もしかしたら全く正反対から音を覗いているのかしら、と思うことがあって、面白いと感じたことがあります。

2004.12.8

66)

 例えば、ヴァイオリン作品で駒の向こう側で弦をきしませたフォルテが続くのですが、ここをエスプレッシーヴォだと思って書きましたが、聴いていればただ、きいきいとやっているだけに聴こえるかも知れません。
 ただ、ここで演奏者がとてもエスプレッシーヴォだと思って弾いてみたら、それも古典的な意味で「エスプレッシーヴォ」だとしたら、果たして自分の思っている音に近づかないだろうか、まあそんなことをつらつら考えているわけです。

 昨年書いたアンサンブル作品では、こうした一種のパラドックスをさまざまな楽器に当てはめてみました。つまり、書かれるべき細かいことより、まず音楽の息全体をデザインしてみるわけです。プロセスは全然違いますが、昔よく聞いた、クセナキスの人間臭い荒い息遣いみたいなものを、より親密に感じてみたいと思ったのです。クセナキスの素晴らしさは、別に数学的な操作でもなんでもなくて、結局、人間の表現を超越したところで、彼が人間の呼吸を壮大に描ききっているところだと思いますが、それに対する、無意識の憧憬のようなものかもしれません。

2004.12.13

51-60