みわまさひろ
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Tempus Novum のコンサートを聴いて
コンサートの後に「感想をかきます」などといったら「どうぞボロクソにかいてください」「言いたいことを何でもかいてください」なんてどんどんいわれちゃって・・!
で、純粋に(?)ぼくがこのコンサートを聴きながら感じ、思ったことをなんとか書いてみようと思います。どんなクリティックでもそうですが、何かについて正直に書けば書くほど、逆にそれを書いた人の考えや限界があぶりだされてくるものです。特にこの感想文はその傾向が強いと思います。この文章を書いたぼくを今度は「どうぞボロクソにかいてください」。これで対等だよね。
1、はじめに
Tempus Novumというグループの存在を知ったのは随分昔(発足間もない頃?)、ドイツにテープを送ってもらい、「感想きかせて!」と言ってくれたのをよく覚えています。多分誰もが評価しているでしょうが、このグループがとにかく今も続いているということは画期的だとぼくも思っています。ぼくの想像ですがひとつの思想的、音楽的スクールとしてではなく、COOPのような生きる知恵としての側面が強いのでしょうか?わがままで(?)それぞれが生き延びるだけで精一杯の作曲家達が9年間も同じ状況で和気あいあいとグループを続けられるはずもないからこそ、メンバーの忍耐と努力には想像に余りあります。そしてだからこそ、「日本の若い作曲家とはオレ達のことだ!」といわんばかりのこのコンサートの存在は「曽我部さんの演奏」という分を差し引いたにしても、ぼくにとって興味があり、期待させる何かがありました。さらにメンテのメンドウなウェブページを見つけたときは「おお、何かやる気だな」と勝手に盛り上がってしまいました。
2、失礼のお詫び
ここでは個々の曲についてあまりぼくは書こうと思いません。つまりこのコンサートに出品した、あらゆる面で異なり、個性溢れる作曲家達に対して十把ヒトカラゲでいろいろ言います。これはひとりひとりの作曲家に対してかなり失礼なことです。まず謝ります。以下に書くようにこれはぼくの関心が「このようなコンサートを開くこと自体」に大きく向けられていたせいだと思います。
3、感想
コンサートは楽しめました。しかしそれはぼくがある意味で同業者だからだろうと考えます。それぞれ個性がありました。まるで小さな島をうまく住み分ける多様な動物たちのように。それぞれの作品はおしなべて「人間が作ったもの」として相応の価値を持ったものでした。つまりコンポジションとして、普通の人達がそうそうマネできない、思考と努力、修練の結果としてのそれです。特殊技能、西洋古典芸能に精通したエキスパートの職能として。でも、そんなもの、今時、だれが期待してるんですか〜〜?
個性的だけど、それはあなたの本当の個性ではない、あなたが学んだ誰かの個性にしかぼくには聴こえない。「それを聴くならオリジナルの方を聴くよ!」と同業者のぼくは言います。小さなグループの中での差異でしか通用しない個性、といったらあまりにひどすぎますが、まずはそう言います。そして「小さなグループ」がひどすぎるなら「小さな日本の作曲界」と拡張しても「小さな世界の先進国の作曲界」と拡張しても構いません。
ぼくがこんなにイジワルな言い方をするのは、自分たちの表現を成り立たせている基盤についての意識がどの作品にも全くといってよいほど感じられなかったことに対する個人的な苛立ちがあったからです。例外なしでした。ぼくがこの感想文で言いたいのはこの一点だけです。
戦後ではなく世紀末の世界都市、東京に住んでいる若い作曲家がこんなノーテンキなことを細々とやっていることに唖然とします。時代錯誤、まるで老人みたいです。そして、戦後の論理が今でも通用すると信じ永田町の論理でしか動けない自民党のマヌケな政治家が「次はオレが大臣になる番だ」と待つように、あなたも辛抱強く待ってこの作曲界の権威にいつの日かなろうとでも考えているのか、と勘ぐりたくなります。危機感がない!足もとが沈んでいるのに。このような音楽の聴衆がそれでもまだ少なからずいるヨーロッパでさえ(西洋音楽なんだからアタリマエ)現代音楽は聴衆を集められず、つまり新しい聴衆を魅了することができず成り立たないのですよ。ましてそんな根っこすらない日本で西洋で生まれた美意識とスタイルを大正、昭和の知識人よろしく輸入し、自分の趣味で再生産するような程度のやり方で何かが生まれると考える方がおかしい。
「少数の人にしかわからなくていい。自分は自分の表現を極めるのだ」と言うのでしょうか?その表現があなたにしか成り立っていないことになぜ気付かないのでしょう?東京の町を100メートル歩けば誰にでもわかるはずのことです。そして、そのようなものを表現とは言いません。それが「いま、まだ」できないのならば仕方がないけど、そのような意識そのものが感じられないのがぼくには大問題でした。ドイツに送ってもらった時のテープの方がまだ、何かの意志を感じました。9年(?)前の方が面白かったぞ〜!
ぼくには「好きなことをする」、「やってみたいことをやってみる」という何か生き生きとしたもの、チャレンジの精神が感じられなかった。名を成した年輩の作曲家なら何も言うことはないけど、次世代の期待を担うあなたがこれじゃ寂しすぎます・・現代音楽こそ、既成のフォーマット、因習を疑い、その時代の人々が共有できる新しい表現を見つけていく数少ないチャレンジではなかったのか?自分の必然に基づいた新しいフォーマットを見つけていく作業こそが現代の作曲ではなかったのか?少なくともぼくが知っている重要な作曲家は例外なくそのようなことを成した人でした。なのに、どの作品も既に誰かが見つけだした一時代前につくられたフォーマットの中でしか表現していなかった。作品の中にはコンポーズすることに対する強い意志を感じたものや、作品の成立において深く考えられた形跡を感じられ、ぼくは唸ることもあったけど、でも、ゲストの堰合氏の、本来ウチワウケのネタを手堅い技術で延々引っ張るパフォーマンスに表現としてあっさり負けていた。一部は演奏家の力量のおかげだとしてもその条件は同じだったはず。こんな弱くていいのか!?
もっとわかりやすく軽くやろうとか、聴衆をもっと啓蒙しようとか、ゲンダイオンガクをポップにしよう、などとぼくが言っているのではないことはわかってもらえると思う。なくなるなら現代音楽なんていうジャンルはなくなればよろしい。聴衆にウケるかはとりあえず問題にしなくていい。問題なのはあなた(ぼく)の努力が報われているのか?表現として成り立っているのか?そしてあなた(ぼく)は本当に自分のつくったものに満足しているのか?これはつくる方にとっての大問題のはず。
そして、ぼくの今までの批判を象徴するのがプログラムノート。
一体誰に向かって話しているのか?一体この思わせぶりでダレた語り口は何?聴衆の感想を先取りしたような発言が読者に対して僭越だと思わないのか?言葉によってそれでなくてもわかりにくい自分の大切な作品を少しでも理解してもらいたいという意志があるのか?プログラムノートの語り口までどこかの先輩作曲家のそれをマネするほど、ゲンダイオンガクの既成のフォーマットに安住している。緊張感の欠如・・!若いミソラでなさけない!
4、まとめ
をを・・最後の方は興奮して、ですます調からである調に移行してしまいましたが、まとめるまでもなく何かが「できない」ことに対する批判ではなく、何かがないことを「意識していない(しているようにはみえない)」ことに対するぼくの不満でした。個人的なことを言えば今回の批判は日本に戻って以来ぼくが悩み続けたことそのものでもあります。そしてこの批判は多分、今回のコンサートとその作曲家達に対するものに終わらないはずです。ただ仲良くしてくれたので、せめてものお礼にぶつけてみました。
同業者なので、言いっぱなしというわけにもいかないと覚悟してます。いいたいこと思いっきりぶつけてごめんなさい。
みわまさひろ