フェラーリ談義


近藤讓(作曲家)×大里俊晴(音楽評論)


大里:70年の大阪万博で、悠治さんがフェラーリの『ウント・ゾー・ヴァイター』を弾かれたのはご覧になったんですか?
近藤:僕は聴衆でした。
大里:その前にフェラーリっていう名前はご存知でした?
近藤:さあ、憶えてないなあ。でも悠治さんが弾いたのは非常に新鮮で面白いと思ったけど。あのリサイタルで弾いたのは……僕の、もし間違いでないとすれば、ケージのチープ・イミテーションってあの時代?もっと前?
大里:ケージのチープ・イミテーションができたのは60年代ですね。
近藤:だから弾いてる可能性ありますよね。それとリュック・フェラーリのが一番印象に残ってたんじゃないかな。で、なんて言えばいいのかな。僕、フェラーリの音が好きなんですよ。音とか音楽の成り行きが。それがすごく印象にあるのと、非常にモンタージュ的でしょ、音楽の作り方が。それが非常に新鮮でしたけどね。
大里:そのうち確かヴェルゴでそれのアルバムが出ますよね。
近藤:ええ。
大里:それが何年だったかな。その頃には近藤さんもフェラーリのこと既にいろいろご存知だったんですか?
近藤:いや、そんなに情報がなくて、ボクが最初に手に入れたLPはパテマルコニかな。
大里:ああはいはい。
近藤:『トートロゴス(III)』と……
大里:『インタラプトゥール』。
近藤:『インタラプトゥール』。あれは好きで何度も聴きましたけどね。
大里:それでムジカ・プラクティカなさってた時に演奏なさいましたよね。
近藤:ええ。
大里:両方やられました?
近藤:いや、『トートロゴス』は……あ、やったな。
大里:『トートロゴス』はやったんですよ。
近藤:『トートロゴス』と『インタラプトゥール』両方やりましたね。
大里:ですよね。で、要するにその時にフェラーリから楽譜送ってもらったわけですよね。
近藤:いや、メックのを買ったんだよ。
大里:あ、買ったんですか。
近藤:そうですよ。メックから出てたでしょ?
────サラベールからじゃなかったんですか。
近藤:うん、ポーランドのメックから出てたんですよ。だから(本人との)接触は何もない。
大里:また、なんかやるから送れとかそういうやりとりがあったんだと思ってたんですが、そうじゃなくて。
近藤:うん、全然そうじゃなくて。
────『トートロゴス』って、不確定の要素が強いけど、確定したバージョンっていうのがあるんですが……。
大里:それをやられたんですよね。
近藤:うん。一人一人全然テンポが違う。あれはフェラーリが自分で音符にしたコンサート用のヴァージョンですよね。だからパテマルコニのLPに入ってるのとはもう全然違いますよね。あれはシモノヴィッチだっけ?
大里:はいはい。
近藤:か何かがやってる。
大里:で、それでその頃フェラーリのこれをやろうと思われたのはどういう動機というか。
近藤:いやあどういう……困ったな(笑)。まあその、好きで面白い曲はやろうという気があったから(笑)。
大里:基本的にそうですよね。
近藤:それだけなんですけどね。
────フェラーリを日本に紹介しようとか、そういう使命感みたいなのはあったんですか?
近藤:いやボクはね、一般にそういう意識はないんですよ。誰を紹介しなけりゃいけないとかそういう感じはないんで。
大里:結果的にそうなってるということですね。
近藤:そうです。
大里:特にムジカ・プラクティカでやられたのが日本初演みたいなのが相当あった。
近藤:そう、それでシェルシみたいなのも、別に紹介しようとかって思ってやってるわけでも何でもないんだけど。
大里:たんに好きでやったらそうなったって事ですか。
近藤:うん、それからもう一つは、当時っていうか60年代70年代にはまだ前衛の主流がわりと盛んだったでしょ。だからポスト・セリエリズムから出てきて、それだけじゃないけど前衛の主流から外れたところの面白さっていうものに興味があったから、その意味ではフェラーリも外れてますよね。
大里:ええ。
近藤:それでちょっと興味があって。
大里:そのときにフェラーリを一応なんかパンフレットみたいなので紹介するわけじゃないですか、一行二行。
近藤:そうですね。
大里:その時には何を参考に?
近藤:何にも憶えてない(笑)。
大里:僕はなんか読んだんだよね、読んだ憶えがありますよ、確かムジカ・プラクティカでやったコンサートで……。
近藤:うん、なんか書いたでしょうね、プログラムノートに。でも僕何にも憶えてない。
大里:実はね、その楽譜かなんかを誰かが持ってて、それでアンサンブル・オーロールってどなたかが、高野真理(現たかの舞り)さんとかあの辺の連中、桐朋の連中でやってて、たまたまボク桐朋に知り合いがいて、「じゃあフェラーリやろうよ」って言って……。桐朋じゃなくて日仏でね、その楽譜を参考にして相当いい加減な解釈でやった憶えがあって、でもそれは80年代入ったくらいだから。ムジカ・プラクティカはいつからでしたっけ。
近藤:80年から90年までかな。
大里:ですよね。すると70年代っていうのは近藤さんはフェラーリについての知識はどうだったんですか?
近藤:だからそのLPで知ってて、まあ好きな作曲家の一人で、例の『プレスク・リヤン』とかさ、あとなんだっけ、電子音楽でいくつかありますよね、それがLPになってたでしょ。それから『ウント・ゾー・ヴァイター』もヴェルゴから出てましたよね。
大里:そうですね。
近藤:フェラーリの音楽には輝かしい響きがあるでしょ。で、僕、フェラーリがどこ生まれか、まあフランス人って事しか知らないんですけど、例えばよくブーレーズの作品が評されて、非常に地中海的な輝かしい響きがするって言うんだけど(笑)、ボクはそういう意味では、フェラーリの方がずっと地中海的な音がすると思って、まずそれが好きだったことと、もう一つは、一種の暴力性というか、非常に強い衝撃がありますよね、聴いてると。それはたぶんそのモンタージュ的な作り方から来るんじゃないかと思うんですけど、その二つのことが非常に興味があった。
大里:面白いと思うのは、非常に音が少ない曲というのと、異常に暴力的なのってのが二面フェラーリの中にあるわけじゃないですか。もとはひとつのような気もするし、その二面性っていうのは一体何なんだろうなって思うんですけど。
近藤:でも音が多いのと少ないのは根本的に同じなんじゃないですか。その中間ていうのは多分違うと思いますけどね。
大里:はいはい。
近藤:だから二面性だとはあんまり思わないなあ。
大里:『プレスク・リヤン』の確か裏側が……
近藤:『ソシエテ(II)』だった。『ソシエテ』もいい曲よね。
大里:なんかあれも暴力的な曲じゃなかったですか。
近藤:ピアノコンチェルトでしょ?
大里:ですよね。だからそのへんの極端さっていうのに僕なんかすごく衝撃受けたし。
近藤:例えば『プレスク・リヤン』でもさ、途中で漁船のエンジンだっけ、かかるとこあるでしょ、あれそれまでと比べると猛烈な音でしょ。
大里:あ、そういう意味ではそうですよね。全く音がなかったとこからいきなり出てきて。
近藤:だからああいう事っていうのはそんなに『ソシエテ』なんかとはあんまり違わないんじゃないかなって気がするけど。
大里:近藤さんの曲というのは、おそらくは間違ってだけど、弱音的とある時期からずっと言われてるわけじゃないですか。
近藤:そう、間違ってる(笑)。
大里:ホントは非常に強い音も使ってるんだけれども、しかし弱音的と言われていて、だからそういう意味でフェラーリとどっか質が、似ているとはいわないけれども、何か通じるものって感じたことありません?そういう風に思ったことないですか。
近藤:あのね、非常に難しいけど、まず音の好みが似ているところがあると思いますね。和音の好みだとか何とか。あとはね、その静けさっていうのは、必ずしも音が強い弱いじゃなくて、スタティックかどうかっていうことですよね。音がものすごくでかくたってスタティックな音楽っていうものはあるわけで。フェラーリの音楽は別にスタティックな音楽じゃない、非常にドラマティックな音楽だと思いますけれど、ただ、さっきちょっとモンタージュ的って言いましたけれど、個々のセクションが非常にスタティックなんですよね。それをどう配置するかで、全体に非常に大きなドラマができる。でもそれは例えばベリオみたいな、流れでどんどん物語を作ってくっていうようなものとは非常に違って、切断されたスタティックな面を並べて物語を作っていくっていう。
大里:まさに「切断」という曲がありますよね。
近藤:そう、『インタラプトゥール』(=切断)だけど、そのそれぞれの切断面ってね、それからその接合面かな、それには共感とまではいかないけど、ある程度まで近いところがあるでしょう。
大里:僕なんかが思い浮かべるのは「夏の日々」ですね、近藤さんのね。資質的に非常に近いものを僕なんか感じるんだけど、それはやっぱり読みが非常に浅いのかしら。
近藤:いやあ、似てますよ。もちろん、僕は全然フェラーリを知らなかったですよ、あれをやった時。だから『プレスク・リヤン』を聴いた時にね、「あれえ!」と思った。ほとんど同じじゃない、と思いましたけどね。
大里:やっぱり驚きますよね、あんな事をやってる人が、同時に全然違うところで。
近藤:そうそう。
大里:近藤さんが「夏の日々」をやろうと思ったって事は、どういうことなんですか。
近藤:うーん……どういうことなんだろうな。あの、ひとつにはね、こういうこと言っちゃいけないんだけど、新しいテープレコーダー買ってね(笑)、
────使ってみたかったという。(笑)
近藤:そう、使ってみたかった(笑)。
大里:それは、正しい動機ですよね(笑)。
近藤:そう。それでマイク立てて、どうせだからそこらの音拾ってみようかと思って拾ったんですよ。それで30分間録りっぱなしにしといてあとで聴いたら「ああ、キレイだな」って思ってね、これはこのままで充分だなと思って、それでまあ、多少モンタージュしたんですけど、音楽の流れができるように。で、当時の僕はわりと流れを作らなきゃって思ってた頃だから。まあだから、そういう動機でできたんですよね。
大里:すごくゆっくりとモーツァルトかなんかが鳴るじゃないですか。
近藤:そうですね。
大里:あれが極めて美しいんですけど。
近藤:ホントにビックリしたんだもん僕、『プレスク・リヤン』聴いた時。
大里:そうか、やっぱりその辺で質が似てるといえばやっぱり似てると言わざるを得ないところが(笑)。
近藤:ああ、それはあるでしょうね確かにね。
大里:で、フェラーリ自身はケージからの影響ってのをハッキリと自分で口にしてて、ケージがやっぱり一番重要な影響だみたいな。
近藤:それはもう、僕にとっても言うまでもない。だってそういう環境の音や、環境の音っていう言い方ボク嫌いなんだけど、周りの音にそういう風に耳を澄ますってのはね、根本的にケージがいなければほとんど起こってこなかったことだから。
大里:そういう意味で、非常に純粋にケージを受け継いでいるっていう気がフェラーリなんかも、まあある意味での近藤さんなんかも、そういう気がするんですよね。だから、まあケージが異端という意味で異端なんだけれども、ケージがメインだといえば、非常にメインな作曲家なのかも知れないという気がすごくするんですけれども。
近藤:もう一方で僕、フェラーリでいつも感じるのは、僕にないところですけれど、やっぱりシェフェールのような人の影響が非常に強いと思うんですね。それで、僕がシェフェール/フェラーリのラインで考えて感じることは、音っていうのを抽象的に考えてない。
大里:ああはいはい。
近藤:だから例え器楽でやったにしても、必ずそれになにか身振りがついてたり、あるいはある場面がついてたり、ある社会的なコノテーションがあったり、なんか抽象的なオブジェとしての音じゃなくてね、人間の生活でも社会でも何でもいいんだけど、その中で意味を持っている音っていうような背景があって、それをモンタージュしていこうとしてると思うんですよね。だから、単なる抽象的な建築としての音楽じゃない。だからさっき言ったように、当時のセリエルがもしさ、ブーレーズが非常に抽象的な音の建築だとすればね、それも疑問だけど、そうじゃない他の音楽の繋がりっていうのがあると思うんですよ。で、彼はそっちの意味でケージと繋がっていると思うんだけど、ボクは逆に音にそういう意味をみない方だから、だからそれはずいぶん違うなっていうふうに思うんですよね。
大里:もともとシェフェール/フェラーリのラインっていうのがいわゆるミュージック・コンクレートで、どんなに切り刻んでも、要するにある音が、やっぱり元の、なんて言うかな。
近藤:まあ意味性を持っている。
大里:持ってしまう。意味性を持ってしまうから、逆にそのことを隠さずに際立たせた方が面白いんじゃないかっていう、そういう発想ですよね、おそらくはね。
近藤:そうでしょうね。そうだと思う。
大里:そういうふうに開き直ってやっちゃった人って、実はそういないんですよね。
近藤:そういないですよね。音の社会性みたいな意識っていうのはさ、例えばまあグロボカールはずいぶんあると思うんですよね。だから僕の中ではグロボカールとフェラーリっていうのはある意味では近いというのがあるんですよ。だけどあと他の、いわゆる政治的な作曲家、例えばジェフスキーにしてもクリスチャン・ウォルフにしても、これはメッセージ性のあるような意味での政治性社会性だから、フェラーリやグロボカールのようなね、音が内在しちゃっている意味性みたいなものとは違うと思うんですよね。だからそういう意味ではずいぶん特殊といえば特殊だろうと思うな。
大里:まあでも、近藤さん自身はそのどちらの方向も取られないで、音そのものにはなるべく意味を見いださないっていう……。
近藤:うん、そうですねえ。
大里:でもどうなんでしょう、例えば「夏の日々」なんかを聴いてると、どうしたってやっぱりその場の情景なり何なり……。
近藤:あ、これはね、言い訳に過ぎないけど、73年より前の曲っていうのは別ですよ(笑)。
大里:あ、なるほど(笑)。
近藤:だから「ブリーズ」も別だし、「夏の日々」も別だし。
────ということはつまり、73年より前にいろんな方向を試してみたうちの一つっていうことなんですか?
近藤:そうです。
────なるほど。
近藤:非常に意識的に73年に決心して、この一つの方向に行くって決めたんですよね。
大里:で、その後、フェラーリと交渉は全然ない?
近藤:全く知らないんです。
大里:ほう。まあ、フェラーリ自身も日本には今回で初来日なんでしょ。
────そうですね。だから日本と接点って、今まで信じられないくらいない作曲家だったと思うんですね。あれだけの巨匠でありながら。
大里:巨匠だと誰も思ってないんじゃない(笑)?
近藤:うん思ってない。何で僕接触しなかったんだかよく分からない。プラクティカやってる時接触してもおかしくなかったんですけど、なぜか接触しなかったな、どうしてだろうな。フランスにいたからって事かなあ、僕フランス語できないし(笑)。
大里:最近ね、よくCD化されているわけじゃないですか。
近藤:ええ。
大里:そうすると、現代音楽好きとかあるいは現代音楽の研究家や演奏家よりも、むしろなんていうんでしょうか、最近のね、DJから入った音響派とか言われるような、そういう風なまあポップの文脈で、フェラーリなんかはすごいなって言われ始めているらしいんですよ。でその辺からみると、やっぱり外れたところで面白がられる人。
近藤:ああ、明らかにそうですよね。今、現代音楽全体がすごい伝統的な方向にもう一回向かっているでしょ。だからその中では……ある意味では残念だけどね、つまり、あの世代がさ、今でも新鮮だっていうのはさ。
────そうですよ、全く(笑)。
近藤:困ったもんだと思うんだけど(笑)。
大里:近藤さんが教えてらっしゃる学生さんなんかで、フェラーリなんかどうなんでしょう。「フェラーリ好きなんです」なんてやつは出てこないんですか?
近藤:あんまりいないですね。というよりね、まあこれはこの話に全然関係なくなっちゃうかもしれないけど、あんまり積極的に音楽に興味ないんじゃないかな、この作曲科の連中。
大里:そこまで言っちゃうとまずい(笑)。
近藤:なんかまあ音楽やって、作曲も面白そうだから入る……だけど、例えば僕なんか知らない曲があるっていうと「ええっ、ちょっと、知らないから聴きたい」とか思うでしょ。全然そういうのないですもんね。
大里:いやまあ、ボクも一応最近は教育者で(笑)、ここ何年かはそういう学生をみてると……。
近藤:そうでしょう。
────やっぱりそうですか。
大里:ええ。何考えて学校来てんのっていう(笑)。
近藤:やりたいことなんてあるのっていう感じだよね。
────僕の学校の生徒もやっぱり知らないですよね。知ろうという気があんまりないような気がしますけど。
大里:でもだから逆にね、ある意味で在野のというか、それこそDJやってたりっていう人が「フェラーリいいじゃない」って言うのはすごく面白いし、楽しいことのような気がするんですよね。
近藤:うん、だからなんかこう違った価値観を持ってるとかさ、違った時間の意識持ってるとか、あるいは違った意味性を持っているものが欲しい、と思ってる人にはね、アピールすると思うんだけど、そういうことをあんまり求めない人が多くなっちゃった時代だから困ったねっていう。
────あと、サンプラーなりターンテーブルなりっていうものが出てきたんで、そういう、音に付いてる意味性っていうのが繋がるじゃないですか。だからその辺でサンプラーやターンテーブルの音楽のまあ一種の祖先じゃないけど、そういうものとしてミュージック・コンクレートなりフェラーリなりにあらためて注目している、っていうのもあるんじゃないかと思いますけど。
大里:『ストラトーヴェン』とかってバカみたいな曲でしょ。(笑)
近藤:ボク知らないやその曲。
────ベートーヴェンと『火の鳥』をこう行ったり来たりするっていう……。
近藤:あ、知らない知らない。
大里:最初ね、ジャジャジャジャーンとか出てきて、決めのところで音が違って『火の鳥』になるという……。
近藤:あ、ほーんと。
大里:要するに少しずつ構造が入れ替わってゴチャゴチャになってしまうっていう。
────丁度その入れ替わる場所が狙ってるんだよね、なんか。
大里:そう。もう大笑いの曲なんですよ。あれをやるか、アカデミズムじゃ誰も評価してくんないだろうっていう、それをね、まあ歳としては29年生まれでしたっけ?
近藤:そうですね。
大里:相当な歳のやつが、あんなバカなことをやってしまうんだってのはやっぱり……。
近藤:でもカーゲルもそういうところあるからね。
大里:あ、はい。
近藤:彼だって31年生まれぐらい。
大里:まあだから、少なくともね、僕らの中ではカーゲル、フェラーリ、あと何人かみたいなのってやっぱり、どっかぶっ飛んでるよねっていうのありますよね。
近藤:最近ダメになっちゃったけどね、カーゲル。
大里:ああそうですか。
近藤:うんもう全然。自分じゃあユーモアだと思ってるんだけどなーんも面白くない(笑)。もうー、なんかちょっと苦痛。大家だっていう意識が出て来ちゃったような気がする。
大里:ああ……。で、フェラーリなんかも、自分でレーベル起こしたりなんかするじゃないですか。あの、何だっけ、La Muse en Circuitというのは今はやってないよね?
────って言ってましたね。
大里:でもやっぱり、自分でプロデュースするっていう姿勢が、すごくあるじゃないですか。その辺は近藤さんとも似てるのかなっていう気がする。
近藤:他に手がないからですよ、根本的に。一つ大きな理由は、メインストリーマーならね、やってくれるんだよね、出版社とか団体とか。
────そりゃそうですね(笑)。
近藤:メインストリーマーじゃなくなった瞬間に、自分の手作りでやってかないと、何にもできなくなるからってところはあるんじゃないかな。
大里:やっぱり、そういう風なメディアを持つっていうことはすごく大切なことですよね。
近藤:大切ですね。
大里:だから近藤さんいつも言われているように、要するに作曲家が曲を書いて、図書館の中に楽譜が眠っているだけだと何も残らないっていう。
近藤:そうそう。その通り。
大里:フェラーリってそういう意味で、いつまでもアクチュアルな人だと思うし。
近藤:そうですよね。
大里:音に対する態度っていうのはですね、僕なんかパリに住んでた時に、フェラーリが時々開くコンサートによく行ってたんですけど、面白かったのは、コンサート中にですね、鼻をチーンとかんでいるやつがいるんですよ。「うるせーな」と思ったら本人だった(笑)。どうですか、そういうのってのは近藤さんとは相容れないんじゃないですか(笑)。
近藤:あのね、でも、僕が彼の音を好きだっていう一つの理由はね、非常に突き放したところがありますよね。だからそれがキレイだっていっても、自己陶酔的には絶対ならないでしょ。で、暴力的っていうのもそういうところがあって、まあ例えばなんとなくこうキレイで中に入って酔えるかなって思うと決してそうはさせないっていうところがありますよね。でいつも距離を置いて、ある客観性を持とうと。その姿勢は、僕はわりと好きなんですよね。
大里:ここにね、彼の自分のカタログみたいなのがあるけども、とにかく真面目なことを言わないっていう意志みたいなのがあって(笑)……
近藤:あ、ホント(笑)。
大里:彼必ずそうですね。29年生まれっつってるけど、自分はいろいろとウソ書いてきた、みたいな事書いてるし(笑)……
近藤:ああ、なるほど。
大里:例えばパリ生まれって言ってるんだけど、例えばこの、なんか、コルシカ、父親の出身がコルシカで、自分がコルシカ生まれだって言ってたらどうだったろう、とかねえ、なんかそんな風に、必ずなんかこう、混ぜっ返す。真面目なことは言わないっていう。そういう意味で、ありとあらゆるものに距離を取ってる。
近藤:うん、距離を取ってるね、それは非常にありますね。
大里:それは一体どっから来るんでしょう(笑)。
近藤:それが単なるひがみ屋じゃないからいいんでしょうね。
────全然、皮肉っていうか、ネガティヴなアイロニーじゃないんですよね、それが。
近藤:そうですよね。
大里:一番面白いのはね、自伝をよく書くわけですよ。それでフランス語だと「オート・ビオグラフィー」っていうんですね。それで「オート」っていう言い方は、これフランスでは要するに「自動車」っていう言い方なんです。それで「フェラーリ」でしょ。それとかけて、自動車の話だけ書いてるのとかあるわけね。だから、変なやつだなあって思って(笑)。絶対おかしいですよね。なんかアカデミズムってやっぱり、どっかやっちゃいけないラインって結構あるような気がして、「これ踏み越えるとアカデミズムで誰も相手にされないぞ」みたいなラインを、全然気にしてないんじゃないかっていう。
────堂々と踏み越えてますよ。
大里:どうですか近藤さん、一応アカデミズムの中にいられて……(笑)
近藤:何で俺がアカデミズムなの(笑)。注1)
近藤:だけど、うーん……まあボクはある意味ではシリアスですからね。
大里:いやあ、実にシリアスですよねえ。
近藤:だからその意味ではあんまり抵抗がないんだけど、ただ……
────でも、フェラーリも別の意味では非常にシリアスだとは思うんですけど。
近藤:非常にシリアスですよ。
────本人もそんな変な人じゃないですしね。紳士だと思いますが。
大里:まあ僕なんかの希望で、今度のせっかくの来日のコンサートが、いかにも現代音楽だけのコンサートみたいにはできればなって欲しくなくて、いろんなところに開かれていくようなコンサートであった方がずっと面白いし、って気がするんですけれども。
近藤:彼の曲わりと演奏難しいよね。
大里:でしょうねえ(笑)。
────プラクティカの時は結構苦労しましたか?
近藤:ま、『トートロゴス』はそんな苦労しなかったけど、『インタラプトゥール』は結構大変でしたよ。
大里:やっぱり難しいんだ(笑)。
近藤:うん、結構難しいですよ。
大里:まあ、特にテープ音楽なんか聴いてると、とにかくまず面白いっていうのがすごくあって、で、変な言い方すると現代音楽の中だけに閉じこめておくのもったいないくらい面白いっていうのが……
────もったいないですよ、うん。
大里:……あって、もっと、まあ現代音楽の中でも、もっといろいろアカデミズムの中でも知られて欲しいし、という気がするんだけど。
近藤:そうなんだけどねえ……。
────結構フランスでもなんか、フランスの作曲家とかと話しても、フェラーリっていうのは名前は知っているけど「昔のミュージック・コンクレートの人ね」みたいな感じで終わっちゃったりしたっていう反応が複数あったりして。
大里:ああそうなんですか。
近藤:でもさあ、そういう事ってむしろ政治的なんじゃないですか。例えばフランスで、まあブーレーズが取り仕切っててね、一方にクセナキスがいるけど、ちょっと隔離されたみたいなところにいて、あとはそこに入らない人っていうのは根本的に排除されるじゃない。でそれはどこの国でもそうでさあ、そういうところにはまらない人っていうのは、相手にされないし、評価もされないし。だから音楽が面白い面白くないって事とは別でね、非常に政治的なことだと思うんだけどな。
────そうですよね。で大体そういう排除されてる人の方が面白いことが多いような気がするんですけど(笑)。
近藤:いや、そりゃそうなんだけどね。そりゃその通り。
────大体ご本人もなんか政治的なそういうやりくりにほとんど興味がないみたいで。
大里:音楽界の中の政治ね。
────ただもう自分のしたいことだけやり続けてきたみたいな。
大里:音楽の内部での、音楽界の内部の政治じゃなくて、まあ政治一般というか、それに興味がないわけじゃなくて。
────うん、そりゃそうでしょう。
大里:ただあの人も単純な直接性を避けるから、実際なに言ってるかよく分からないことが多くて(笑)、あのチェンバロの曲で、何でしたっけ「社会主義音楽?」とか、「音楽」で「?」マークが付いてて、で、コメント読んでも何がなんだか分からない(笑)。なんかやっぱりその辺も意図的なんでしょうかねえ。
近藤:そうでしょうね、明らかにね。
大里:日本でも、高橋悠治さんみたいにそういう風なこと考えてる人以外はあんまり政治的なものに触ろうともしない、っていう感じはあるじゃないですか。
近藤:うん、それもそうだけれども、なんていうかな、単に政治的なもの、っていうことだけじゃなくて……アカデミックな人とかメインストリーマーってのは、音楽のことしか考えてないよね。で、悠治さんにしろフェラーリにしてもさ、音楽のことだけ考えている訳じゃないと思うんですよね。で、それが、その音楽に、ボクは「広がり」と言いたいんだけど、ある種の広がりを持たしてるから、その象牙の塔の中には決して入らないような音楽になるんだと思うんだよね。だからその意味で非常に人間的なんだと思うんですよ。だから音楽のために音楽やってるっていう感じはあんまりしないんだよね。
大里:それから彼なんかラジオドラマとかね、それから昔はフィルムですよね。も作ってて……。
────テレビのドキュメンタリーフィルムかなんかをやってたらしいですよ。
近藤:なんか俺見たことあるような気がする……。
────えっ、そうなんですか?!
近藤:昔だけどね外国で、なんか見て。で、「Music: Luc Ferrari」って書いてあったような気がする。
────それは何のドキュメンタリー……?
近藤:ぜんっぜん憶えてない(笑)。
大里:でも、ホントに、なんかそれもやっぱりすごいことですね、いろんな違うメディアに関わっていって、で、フィルムとか作っちゃうみたいなのはね。フリージャズを紹介したりとかしてたんでしょ、確か?
────セシル・テイラーのドキュメンタリーを作ったというのは聞いたけど。
近藤:あ、ホント。
大里:確か書いてありますね、どっかにね。カタログみたいになってて、フィルムとかっていう風なのがあってですね。それから音楽劇みたいなのもやってるのかな、というか音楽劇自体はやってないのか。
────いわゆる生の役者がいてっていう劇の話は知らないですけどね。
大里:近藤さんはあんまり音楽劇とか、あるいは劇的なものっていうのには興味がないというか……。
近藤:いやオペラ書かされたけどね。
大里:ああそうか(笑)。それにしてもあんまり積極的にそっちの方に行こうっていうのはあんまり姿勢が見えない……。
近藤:そうですね。
大里:それはどういうことなんでしょう……近藤さんの話になっちゃったなあ。
近藤:僕の話する時間じゃないよ。(笑)
────いやあもう、遠慮なく(笑)。
近藤:答えになるかどうか分かんないけれど、僕、オペラ書かされた時にね、一番感じたのはね、ミュージック・マイナス・ワンで書かないとだめだなっていう事だったんですよね。
────両方合わせて一になるということですね。
近藤:そう。劇番やってた時にね、初めの頃知らないでこう一生懸命書いて、ぜんっぜんダメなんだよね。だから、画面がある時は、何か欠けてるところがある音楽書かないといけないっていう事を非常に強く感じて、それはね、書いてて、まあそれはそれで面白いんだけど……特に積極的にやろうとは思わない……だけどもしかしたらそれを上手く埋めてくれるっていうか協力できるいいステージ・ディレクターとかがいればね、そっちとの相性の問題でしょうね。それからもう一つはね、自分でこうさ、ステージまで想像してオペラ書いたりするとね、非常に貧弱なものになるっていう恐怖感があるんですよ。というのはさ、いろんな作曲家とか何とかがね、視覚的な要素を入れた曲とか書いてるじゃない。で、大体はその視覚的な部分というのはほとんど素人でさ、もう子供じみてて見るに耐えないっていうものが多いわけね。そうすると、音楽があれだけやってるのに、何で視覚的な点であんな幼稚なものを付けなきゃいけないんだろうっていうのをさんざん見ていて、すると自分がやるとああなるに決まってると思うもんだから(笑)、だからちゃんとそっちをやってくれるっていうか、一緒に協力できる人がいれば面白いなあって、だからフェラーリみたいに両方できるっていうのは素晴らしいと思うけど、僕にはできない。
大里:あとフェラーリは、今度ももし可能ならばインスタレーションみたいなのも展示したいと……
────……っていう話はまだ未定であることはあるんですけどね。注2)
大里:結構いわゆる美術的な領域にも足突っ込んでるっていうことなんですか?
────そうみたい。なんか、この作品リストを見ても、特に近年なんかそういうインスタレーションっぽい作品がパラパラあるみたいなんで、まあ僕は実際見たことないんですけど。
大里:インスタレーションってのはよく考えてみればそのケージ的な……
近藤:そうよ。音楽でも美術でもないようなもんだもんね。
大里:そういう意味でいつまでもケージに忠実な人なのかも知れないし……。
────だからフェラーリがインスタレーションって、別に違和感は全然ないですよね。
大里:あとはね、民族音楽に接近してるっていうのもちょっとあって、えーと、これ、この曲か、「風の神かなんかを見たもの」とかなんとかいうあれで、南仏の方の、いわゆる民族音楽のミュージシャンとやってたりするんですよね。注3)
────これは確かタイトルはドビュッシーの前奏曲集だって言ってましたよ。
大里:あ、そうなんだ。
近藤:「西風の見たもの」。
大里:この曲なんか民族音楽と関わりみたいなのもありますね。
近藤:でもこれはさ、いわゆる前衛の主流に属さなければね、つまりヨーロッパの芸術音楽こそが伝統だと思わない人は、必然的に民族音楽と関係持つんじゃないんですか。さっきのグロボカールだって結構そうだし、ボクだってある意味でそうだし。ケージもそうだし……。
────近藤さんも民族音楽って……。
近藤:僕民族音楽しか聴かなかった時代って3年くらいあった。それ以外何も聴かないっていう……。
────若い頃ですか?
近藤:若い頃。ある年はロックしか聴かなかった、あと2,3年民族音楽しか聴かなかったっていうのが……。
大里:でそれはなんかの形で作品には影を落とすものなんですか?
近藤:僕の使ってるリズム、例えば僕の話だけど、リズムはずいぶんおそらく、民族音楽の影響ずいぶんあると思うんですよ。
大里:なるほどね。それはあんまり誰も、誰からも聞いたことがない(笑)。
────普通思わないと思うんですけど(笑)。
近藤:うん、普通思わないでしょうけど、でも、なんていうんだろ、人間て何があったって無から音楽作れるわけじゃないわけで、ある意味である伝統からいろいろ汲んでいくわけでしょ。そうすると、音楽を作る上ではやっぱり何か音楽の伝統というのがいるわけでさ。ヨーロッパのものだけが唯一の伝統というわけじゃないって事になれば、必ず民族音楽の伝統に行くことになると思う。ライヒだってそうだし、悠治さんだってそうだし……だからむしろ当然なんじゃないかな。むしろ、ヨーロッパに対して「外側の思考」っていうかさ。
大里:そうか……そう聞けば聞くほど彼がまっとうな(笑)音楽家であるような気が……。
近藤:まっとうだよ絶対!
────それが結論ですか。(笑)
近藤:そうそう。
大里:外れてるという印象があるけど、聞けば聞くほどまっとうであったっていうのが(笑)。……でも今はまっとうであることが外れているのかも知れないという。
近藤:うんそうかも知れないですね。
大里:どうですか、そういう結論になっちゃいましたけれど。
────そうですね。いや全く、その通りだと思います(笑)。
近藤:なんかこう、なんていうんだろ、上手く言葉で言えないけど、……中心主義みたいなものがないんだよね。
大里:ええ。
近藤:で、それが大事なんだと思うんですよ、ものの考え方っていうのは。何か中心というものがあってね、自分がそれを引っ張ってるんだっていう意識になると、アカデミズムになったり、あるいは宗教的なファナティシズムになったり、いろんなそういうことになるわけだけど、そういう中心主義じゃない、だけど、かといって純粋な相対主義でもない、いろんなものに距離を置いて常に批判的なもので見てるんだけど、だけど根はもちろんフェラーリの場合はヨーロッパにあるわけで、ヨーロッパに根があるんだけどそれが中心とも思ってない、それを客観的に見てて、今の時代で何をやるべきかっていうのをいつも見ようとすれば、こうなるっていうのはよく分かるし、だからある意味では面白い人たちはみんなそういう姿勢は共通していると思うんですよね。
────そうですね。
大里:いやもう、結論出たんじゃない(笑)。
────そうですね。
近藤:すいません、何の役にも。
大里:いえいえ、立派に。
────いやもう、充分素晴らしいお話が聞けて。
近藤:そうかなあ(笑)。
大里:いいんじゃないの。
────そうですね、じゃあ、こんな感じで。
近藤:はい、ありがとうございました。
────お疲れさまでした。
大里:お疲れさまで。
近藤:おそまつさまで。

注1)近藤氏が東京芸術大学で教鞭を執られていることを指すものと思われる
注2)結局この話は今回は実現しなかった
注3)『Ce qu'a vu le Cers.』(1978)のこと。

「新しい世代の芸術祭2002・リュック・フェラーリ日本零年・配布パンフレット」より転載



[戻る]


Last up date of this page: Feb.12,2002
(c)2002 Atarashii Sedai no geijutsusai