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ピアノ内部奏法の問題

 作曲家とコンサートホールは、ピアノの内部奏法の問題で対立することがしばしばある。しかし不思議なことに、この問題が解決される風潮はおろか、解決しようと努力が行われている気配さえも双方ともにない。ピアノの内部奏法を必要とする作曲家、または現代音楽コンサートの主催者に対して、自らが管理するピアノを使っての内部奏法を禁じるコンサートホールという、極めて単純な図式であるにもかかわらず。

 作曲家は、プリペアド・ピアノを含めて実に大戦前から行われている、ピアノの内側に手を加えるという手法を、「ごく当たり前」なものとして決行しようとする。対してホール側は、保守すべき彼ら(納税者)の財産であるピアノに少しでも傷を付けさせまいと、防衛努力を怠らない。この二つの立場と主張はかなりの説得力を持つが故に、異論を挟むことは現実的ではない。そしてこの「すくみ状態」を解決しようと努力しない彼らは、真剣にお互いの立場を理解しようとはせず、様々なその場しのぎの対処を繰り返し、問題をいちいち再燃させている。しかしここで、解決努力を行わない双方を非難する前に、ピアノという楽器の特性を考えてみよう。

 通常コンサートでピアノを必要とする場合、使用する楽器はホールの備品である。このピアノは個人所有者が発生せず、貸し出すという方法によりピアニストの共有の楽器となるところが、他の種類の楽器と大きく異なる部分である。したがってこの道具は、高い公共性により、貸し手と不特定多数の借り手の間で、例えばその使用法、文化的土壌に基づく意味性などが、同一的な認識をもたれることが前提となるだろう。しかし実際は、例えば借り手の中の各々のピアニストの間には、少なからずピアノという楽器に対しての異なった認識が存在する。あるピアニストはそれをバッハの精緻な対位法を存分に表現するものとして、違うピアニストは幅広いダイナミクスと音色の差異で情感を表すものとして、そしてケージを弾く人は弦に物を挟むことによって、それをロマン派とは異次元の楽器に変貌させることに意味を見いだす。

 楽器に対して個々の人間の認識に差が生じるというのは、何もピアノに限ったことではなく、ほとんどあらゆる楽器について同じことがいえる。これは楽器が「表現をする道具」であることの宿命である。しかしもしここで、差異を認めて楽器はどのような使い方をも許されるべきだとすると、共有楽器の貸し出しというシステムの根幹に関わる問題が発生し、やがてピアノ文化は衰退する。逆に双方が妥協し歩み寄れば、それはそれで一時しのぎの解決以上のものには決してならない。楽器の貸し出しという「公共性」を軸に考えていたら、いつまでも矛盾は解消しない。

 実はピアノという楽器に対して、貸し手と借り手の間には、上に述べたものとはさらに次元の異なる認識が存在している。まず貸し手側によくある問題は、ピアノの文化的背景を考慮せず、楽器を楽器として考えないケース??本来消費物としてのピアノを必要以上に保守するあまり、それに家具的な文化財的価値を付加してしまう傾向にあること??が見られることがある。貸し手は、例えば漆塗りの文化財に傷ひとつつくことを恐れるような神経質さで、彼らのイメージするピアノの演奏法(それはドレスアップしたか弱い女性が優しくモーツァルトや、せいぜいリストを奏でるような、ある意味男性主観的な偏見ともいえる)以外を認めない。その結果、ホールにおけるピアノの楽器としての機能は、彼らの規定する「公共性」という名目によって、最小公倍数的に制限される。これは一見正論にも思われるが、そこでは芸術の持つ先進的価値や多様性の啓蒙など、文化行政が決して軽視してはならない教育的意義をも制限することになる。

 そしてかたやピアノを利用する現代音楽関係者たち。彼らはピアノを決して「家具」とは見なさない。彼らにとって楽器は音を出す道具であり、表現手段であり、それ以上でもそれ以下でもない。この点において彼らの立場は守護されるべきであるが、もしその守護を盾にして、彼らが考えられる限りの使用法でもって楽器に傷を付けることになれば、誰も彼らを支持する訳にはいかないだろう。しかし残念ながら、現代の日本では時折このような「逸脱した行為」が見られるのも現実である。特にホールによるピアノの管理があまり厳重でない場合、彼らの発見されないうちにやってしまうというテロリズム的な内部奏法は、楽器の寿命を必要以上に早めている。そしてそれは、前述の貸し手側とは違った意味で、やはりピアノに対する無知から発生している。

 どのような使い方をしても傷つかない道具など存在しないが、貸し手も借り手もその点について正しい知識を持っているケースは意外と少ない。双方の対決図式を解消するためには、ともに適切な知識を持つことこそが不可欠である。しかし現実に、ピアノに関する最も正しい知識を持つのは、この場合の貸し手でも借り手でもなく、ピアノの調律師である。彼らは専門の教育機関でピアノに関する技術や学問を学び、資格を得る。その内容は高度であり、作曲家やホール管理者が一朝一夕で学びきれるものではない。したがってピアノの使用者と貸し出し側との間にトラブルが発生し、それが楽器の構造の問題や損傷に繋がる問題であれば、最も公正な判断ができる??そしてコンサートの現場にはほとんど例外なく立ち会っている??調律師に判断を仰ぐべきである。それは法律における弁護士と同じく、当事者の代理人として客観的で適切な回答を出すだろう。

 しかし根本的な問題としては、例えば弁護士を立てることを見越して犯罪を行うことが奨励されないように、ピアノに関するトラブルを防ぐことが先決であり、そのためには何よりもピアノに対して充分な理解を持つことである。借り手はどうすればピアノを傷つけない内部奏法を行うことができるか、貸し手は家具としてでなく楽器としてのピアノの意義をどのように理解することができるか。それは調律師ほどの知識を持つ必要もなく、それなりの適切な教育が行われれば充分なはずだ。ヨーロッパなどの現場では、このようなナンセンスな問題が起こらないことがそれを証明している。残念ながら日本ではその種の教育は、本来それが行われるべき音楽大学や管理者の研修の場などでは決して行われていない。実際に使う人、使わせる人にとってこそ大切な教育の筈ではないか?

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