ブリジット・ライリーの絵

 ニューヨーク近代美術館(MOMA)の一角に、ブリジット・ライリーのコーナーがある。ライリーの絵は、例えば白地のキャンバスに黒い波のような線が少しずつその位相をずらしながら所狭しと並んでいたり、太さの違う直線がこれもまたひしめくように並んでいる。一見コンピュータ・グラフィックスで作ったようなこれらの絵は60年頃に描かれていて、近づいて見ると緻密に人の手で丹念に描かれたことがわかる。

 ライリーのこれらの絵はオップ・アートと呼ばれる。オプティカル・アートの略で、訳したら「光学的な芸術」とでもいえばいいのだろうか、人間の目の生理的な現象を応用した作品と考えられる。通常の絵画では描かれているものの意味を考えたり、絵そのものが持つ美しさを感じ取ったりしながら鑑賞するのが一般的で、抽象画であってもその色彩や技法、造形などが問題になる。つまり作者の美意識や意思が絵画を通じて鑑賞者の頭に訴える。

 ところがライリーのオップ・アートは興味の方向がかなり違う。目指すところは目の錯覚、視覚の生理的な現象そのもので、鑑賞者の頭ではなく、その手前に位置する眼球の奥に起こる、チラチラした眩惑を引き起こすことを目的としているように思える。眩惑そのものは鑑賞ではない。したがって、ライリーは絵画を鑑賞するというよりも、絵画によるある種の「体験」そのものを重要視したといえるだろう。鑑賞されることを作品の絶対条件と考える古い体質の人々にとって、きっとライリーのオップ・アートは「作品」に値しないキワモノと写っただろう。しかし広い意味では鑑賞も体験であるし、作者が何かを作りだし不特定多数の人々に呈示するということは、作者の意識的な行為であればこそ明らかに創作行為に当たる。

 近年は体験を目的とするアートは珍しくないが、どちらかといえばそれはメディア・アートなどテクノロジーと連携したものに多い。平面で「体験」を求めたライリーのオップ・アートは、当時としてはかなり特異な位置を占めたに違いない。しかしオップ・アートは、ポップ・アートやコンセプチュアル・アートのように、その後のアートシーンに大きな影響を与えることはなかった。現代美術史の中のある一角に、独立して存在する、「ああ、そんなものがあったね」という受容のされ方のまま、かろうじて忘れられないようにMOMAの一角に留められているのだ。彼女の母国イギリスではどうか知らないが、私のオップ・アートの位置づけに対する印象はそんなところである。

 数年前に、とあるワークショップで、サイン波を延々と聴いたことがあった。十畳ほどの決して広くはないスペースに椅子が並べられ、聴き手は目の前の左右の二つのスピーカーから流れる、始めから終わりまで全く変化のないサイン波を聴く。これが何らかの作品といえるかどうかの議論はともかく、サイン波だけをずっと集中して聴き続けるという体験は意外にないものなので、しばらくおもしろがって聴いていた。やがて、かつて海外の友人が語っていたとある経験を思い出した。彼があるインド音楽のコンサートに行ったとき、会場にいるインド人の聴衆は音楽を聴きながらずっと首を横に振っていたというのだ。左右の耳で交互に音楽を聴くような様だったらしい。そこでその友人は試しに自宅で、ある曲をはじめは右耳だけで、次にその曲を左耳だけで聴いてみたところ、同じ曲なのに違って聞こえたという。

 二度目に聴いたときには一度目の記憶があるから、それをふまえて二度目に聴くときは聴取の比較が行われるはずだ。そのために違って聞こえた、ということはあるだろう。しかし例えば右目と左目が同じ視力で視える人の方が少ないのと同様に、左右の耳が全く同じ聴覚性能を持っているとはいえまい。むしろ多少の違いはあると考える方が自然だ。友人は、インド人が流れてくる音楽を左右の耳で交互に聞き分けて多様に楽しんだのだと解釈し、自らそれを追体験して実証しようとしたのだった。そんな話を思い出して、サイン波ではどのように聴こえるのだろうかと思い私も首を振ってみたところ、単調の極みであるはずのサイン波が頭の動きに呼応するかのように、いやそれ以上に複雑に揺れて聴こえはじめた。もちろんインド人を追体験した友人のように左右の違いを楽しむというのとは少し違い、左右の位相の微妙なズレがそのような感覚を引き起こしているのだから実は話は多少違うのだが、その話をきっかけとしてサイン波の予想外の側面を知ったのだった。会場で、他の人たちは黙って動かずに聴いていたが、私はサイン波が揺れたり迫ったり遠ざかったり歪んだりする様を一人楽しんでいた。

 視覚と聴覚は同じ受容器官として、時に同じ次元でその認知心理学的効果が語られる事があるが、実際にはその仕組みはかなり違うので、視覚の認知論をそのまま聴覚にも当てはめたり、またはその逆を行ったりするのは無理である。が、どちらも同じ「感覚」として一方は聴覚芸術に、他方は視覚芸術にどのように関わるのかという科学的アプローチは可能である。しかし私が今ここで興味があるのはそういうことではない。ライリーの絵はとても緻密で、サイン波は恐ろしく単純という違いはあるが、どちらも「体験」するに当たって共通することは、鑑賞者の能動的な受容が不可欠だということだ。どういうことかというと、本来変化のないサイン波を揺らすために頭を振るならば、ライリーの絵でも、観る人が微妙に頭や眼球を少しでも動かせば、描かれている模様は目の奥でチラチラと動き出す。鑑賞者が能動的に動くことによって、元々動かないはずのそれらのどちらもが動き出し、作品に時間が発生する。「体験」とは時間がもたらすものであり、ライリーの絵もサイン波も鑑賞者が自発的にそれらの中に時間を見いだして体験することが可能であり必然なのだ。

 動かないものに「動き」を与える仕組みを作る。サイン波の作者の意図は知らないが、少なくともライリーの場合は明らかにそれを狙っていたとしか思えない。折しも20世紀後半は、芸術が科学からの影響を大きく受け、その端的な例の一つがまさにオップ・アートだった。他の部屋とは毛色の違うMOMAの一角は、そんな芸術のたどった「当たり前」の歴史の一端を飾っていた。