「表現されるものとしての音楽」にとって、素材である音そのものが問題になる場合がある。音は根本的に考えたときにそれが抽象的な物理現象であるがために、それを表現というある種の具体性を帯びたものに転化させる必要がある。そうでなければ音は単に音として放たれ、聴き手はそれを音として認識はしても音楽として受け取ることは普通しないだろう。音を音楽にするためのこの転化作業は作曲家や音楽家にとっての重大事項であり、失してはならないプロセスである。そしてその行為を「対象化」と呼ぶ。
対象化という作業はしかし、音楽に固有のものではなく、いわゆる「表現」と呼ばれる行為全般に欠かせないものである。また一つの表現でも対象化が異なれば結果は変わる。中世の西洋絵画に常にキリスト像やそれに関わるものが描かれ、ルネサンス以降の絵画にそうではない人物画や風景画が現れたのは、社会構造や価値観の変化を表しその中に生きる画家たちがカンバスに投影するものがそれに合わせて変化した結果である。それは描くテーマによって対象化が異なった、とも言える。仮に対象化が行われない限り、絵画は時代による表現内容の変化を起こさないはずである。ただし音楽と絵画が異なる点は、音楽にとっての音がそのまま表現素材として捉えられやすいのに比べて、絵画の場合絵の具などの素材はむしろ手段として捉えられる度合いが強く、その分手段の先に見据えるべき対象化が作家によってより積極的に意識されることである。更に極端な例は写真である。発明された当初よりカメラが写真を撮る道具である??そしてそれ以上のものではない??という立場が宿命づけられたため、写真を撮るにはその撮るという行動に必然的に対象化??解りやすく言えばファインダーを覗いて撮りたいものを定めるという意識的な行為??が導入されなければ、作品としての写真は成立し得ない。しかし音の場合は太古より自然界に多数存在していて、しかもそれ自体が何かを象徴したり意味を持ったりして??しかしその段階では「音楽」ではない??人間の聴覚に何かしら訴える力を持つことが多いために、単なる音と作品化された音楽の境界はともすると曖昧になりかねない。したがって作品としての音楽を成立させるためには、音楽家が音をより明確に意識して「対象化」しているかどうかが大きなポイントとなるはずである。作品というものの定義はまさにこの部分に大きく依存していると言ってよい。
それでは対象化が存立しうる条件とは何か。対象化とはそもそもあるものに意味づけをしようと認識することをいう。音に何らかの意味づけをすればそれに音楽的な効力を持たせられるかというと、必ずしもそうではない。たとえば映画の中で崖が崩れる音を組織の崩壊になぞれえたところで、それは隠喩にはなりうるが音楽とは呼ばない。音楽として何かを表現するとすれば、そこには音楽であることの意志が必要である。ダダイズム以降音楽とは何かという議論はしつくされていて、ある音なり行為なりが音楽として定義づけられればそれは音楽としてそのまま成立する環境を持ったのが二十世紀である。そこに音楽を成立させようとする意志と、その意志による対象化が行われるとすればそれは正しい。しかしその場合、その意志に基づいた対象化が正しく行われなければ音楽としては成立し得ないとも言えるのである。
作曲家が音楽作品を作るときには動機と意志が必要である。作品そのものを作ろうという動機と、作品をどのように実現しようかという意志。動機と意志が連携したときにその作品がどのような質のものになるかがおおよそ決まる。動機が宗教心に基づき意志がその信仰告白に当たれば受難曲になるかも知れないし、動機がテレビ局からの依頼で意志がエンターテインメントを目指せば商業的に成功するかどうかは別として少なくともそれなりの劇音楽にはなるはずである。この劇音楽が前者の宗教音楽にならず受難曲がテレビ音楽として用いられないのは、作曲の動機と意志が合致しないからであり、作品を強引に交換したところでそれらは成功した音楽とは見なされない。ではこの動機と意志が正しく連携せずに、どちらかの意志が明確でない場合にはどうなるだろうか。もっとも動機が曖昧なまま作曲が行われるということは考えにくい。たとえ委嘱によらなくても自らの内的欲求に突き動かされて作曲するというケースでも、それは動機と考えてよい。問題はその時に意志が明確でない場合で、上記の例では宗教心があってもその祈りの対象が明確でなければ、テキストの選択をはじめとして作品を作るための行為には及ばない。ミサでも受難曲でもオラトリオでも声明でも、それがどのような場所でどのような目的で演奏されるかが分かっているからこそ、作曲家はその目的に応じて意志を持ち作曲をする。言い換えればミサや受難曲などは作曲家がどの類の意志によって書くべきかの指南役にもなっているのである。そして当然、この意志は行為につながるのでそのまま対象化という行為になる。したがって意志の方向性が決まりそれが強固であればあるほど対象化は明確に行われ、手段さえ間違えなければ作品の主張が力を持ちそのまま説得力につながる。もし作品に説得力がみられなければ、それは手段に何らかの失敗があるか??しかしこの文章は手段を論じるためのものではないのでこれについては触れない??それ以前に作曲家の意志が明確でないことが考えられるだろう。
具象絵画は描き取る、また写真は写し取る「具体的なモノ」がそのまま作家の対象化を容易にしている。それに対して音楽は??特にテキストを持たない絶対音楽などは??言い表す対象としての「具体的なモノ」がないように見えるにもかかわらず、音の抽象作品として成立した。ではこの場合何について対象化が行われたのだろうか。しかし意志とは必ずしも具体的なモノを指向する必要はなく、抽象的な何らかの構造なり現象なり概念なりを表現しようとさえ思えば、そのために対象化も行われ得る。元来聴覚に訴える力を持つ音素材をそのまま対象化の対象とすることは、実は困難なことではなかったのである。音自体には絵画の絵の具、または写真のフィルムほど「モノ」を転写して直接的に表現する能力がないことが、早くから音楽に抽象表現の方向を歩ませることになったと考えられる。ちなみに標題音楽には対象化する「具体的なモノ」が音楽外的要素としてあるが、標題音楽の場合はこの外的な素材を通して聴き手の想像力に対象化を託すという仕掛けが施されていて、その意味で標題音楽は絶対音楽より一段階複雑な表現プロセスを踏んでいるともいえる。またテキストを持つ音楽ではテキスト自身が別枠で対象化を行っているので事態は更に複雑である。いずれにせよ具象的であれ抽象的であれ、作品では対象化が必ず行われていて、抽象的な音楽であればあるほど音自体を通して対象化されるのである。
しかし我々はここで音と対象化について混同してはならない。確かに音は抽象的な何かとしてそのまま対象化されうるが、しかし同時に素材としての役割を放棄しない。仮に音そのものを本当に対象として表現しようと作曲すれば、それは絵の具そのものを表現する絵画と同じことになり、手法と目的の関係は混迷する。実は極度に抽象化された音楽でもその過程の対象化では一度音から距離を置き、その外部に対象化するなにかを見つけなければ最終的に作品にはなり得ないのである。例えば古典期の絶対音楽では形式美や和声観が彼らの美学として明確に対象化されたため膨大な数の作品が生産されたが、そのように素材を離れた何らかのものが作曲の過程で投入されなければならないのである。したがって時折現代作曲家がいう「音そのものを表現する音楽」というのは本来あり得ないし、さらに一部の作曲家がいう「方法論を表現する」というのはいってみれば「対象化によって採用される手段を対象化する」ことになるので理屈に合わない。彼/彼女らが語っていることは「音楽外的表現」という言葉がいかにも前時代的なロマン主義を想起させるとの短絡から逃れるための方便にすぎないのではないか。
音楽作品を作るには、必ず作曲の動機と密接に連携された意志が正しい方法と方向で遂行されなければならなく、それが「対象化」という行為によって実現されるわけだが、ではその「対象化」は具体的にどのような方法をもって行われるのか。しかしそこには当然のことながらセオリーはない。作曲家は自らの意図するそれこそ「意思」に基づいた適切な「対象化」の方法を個別に探さなければならない。例えば便器は美術館に運ばれるときにデュシャンによって「対象化」されて『泉』になった。ケージは環境音を哲学的に「対象化」することで、それらを音楽と呼ぶことに成功した。近藤讓は伝統音楽とその語法を現代的に「再対象化」することによって自らの音楽を構築した。フェラーリは、リヒターは、荒木は……作家の数だけ「意思と対象化」の明確なセット、つまり「何かをしたいということとそれを意味付けしようという認識」の組み合わせがあり、それが現代の作家を作家たらしめるために必要不可欠なものなのだ。
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