ジャンルというもの

 ジャンルは存在するべくして、存在する。

 「ジャンルを越えて」というスローガンはナンセンスだ。「ジャンルを越える」ことを目標とした人々は、ジャンルを正しく理解していなかった。「ジャンルを越える」ことによって、何か新しいものが生まれると盲目的に信じているに過ぎなかった。しかし「ジャンルを越え」ようという姿勢そのものが、ジャンルの容易には越えられない高い壁の存在に、既に打ち負かされているではないか。

 人間は物事をカテゴライズするのに秀でている。「右」とか「左」とかいう概念を、人間以外の自然界のすべては、理解しているのだろうか。心臓が左にあるのは、自然界が「左」を理解しているからだろうか。水と大気は、生物にとっては大切な区別だが、区別を必要としない特殊微生物にとってはどうだろう。しかし人間は、個々の相互理解のため、知性の獲得のために意識的に物事をカテゴライズする。そして必要とされないものさえもカテゴライズするのは、もはや人間の性としか言いようがない。

 「ジャンルはレコード屋の都合で作られたものだ」というのは間違いではないが、レコード屋はレコード屋のみで成り立つわけではない。それは人々の購買を成り立たせる重要なシステムだ。ジャンル分けを侮蔑する人々さえ、その恩恵にあずからない者はいない。理不尽な言いがかりはもうやめよう。

 ジャンルは古来から存在してきた。鉄道が敷かれ、飛行機が飛び、情報が時間差を置かず飛び交う現代では、ジャンル同士が入り交じる。しかしそれがもたらすものは、決してジャンルの崩壊ではない。それは新たなジャンルを創出する。なぜなら、人々がそれを切に必要とするからだ。

 したがって、「ジャンルを越え」たり「ジャンルの壁を破壊」することは人間をやめない限り不可能だ。ジャンルを超越したと思っている人は、新たなジャンルを立ち上げているに過ぎない単なる妄信的な宗教家だ。宗教はその世界を閉鎖しさえすれば、それが絶対的世界であるが故に、ジャンルを分ける必要はなくなる。しかしそれは開放的な芸術の場で行われることではない。

 ジャンルを越えるという夢物語は、かつてのアルケミー(錬金術)に似ている。アルケミストは黄金を作り出すという大義名分のもと、科学を大きく発展させた。芸術家はジャンルを越えるという建前において、ジャンルを越える「がごとき」の革新を求めればよい。決してジャンルの区別を否定はせずに、その存在を認めながらもそれを極力意識しさえしなければ、そこで初めて自己を解放できるはずだ。