メロディとして聴く
現代音楽に不慣れな人が現代音楽を聴いたとき、現代音楽に対する印象の持ち方として筆頭にあげられるのが「メロディがない」ことだろう。これに対して現代音楽の作曲家と呼ばれる人たちは、彼らの不満を納得させられるだけの明快な回答を持たない。人によっては現代音楽にとってのメロディの意義が薄れたと言うだろうし、またメロディというものが現代音楽において変質し、従来の意味でのメロディに聞こえない、などと答えることもあるだろう。しかし本質的に、作曲家はメロディについて熟慮する機会を奪われてきたとはいえないだろうか。かつて世界を席巻した前衛は、作曲家に対してメロディを作ることは、過去の音楽の残滓を感じさせるとしてそれを禁じた。禁じられた作曲家はメロディ以外に音楽のよりどころを探し出そうとする。もちろん過去の伝統音楽はメロディ以外の様々な要素を包括的に音楽に盛り込んできたわけだから、メロディだけを排除すれば過去の束縛から逃れられるわけではない。にもかかわらずメロディがことのほか前衛から敵視されたのは、メロディが音楽の象徴として聴き手の脳髄に直接訴えかけてきたと思われたからに他ならない。しかしそれを排除する以前に、作曲家達は本当にメロディの本質について考え、議論したのだろうか?それは決して過ぎ去った問題ではなく、現代の作曲家達でさえもメロディについて確固とした定義づけをせずに、実は漠然とした印象としてしかメロディというものを捉えていない。だとすれば、これは驚くべきことではないか。
メロディは声楽的であれ器楽的であれ、音楽史の中に概念的にも実質的にも確固として存在してきた。その意味で、メロディは音楽における「公理」のようなものであった。公理は存在することを前提とし、すべての理論はこの公理に基づく。西洋音楽の直接的な祖と位置づけられるグレゴリオ聖歌あたりから少なくともこの公理は存在し、その元で音楽の理論は発展と展開を続けることになる。問題は、メロディが公理のような特別な位置にある以上、それはその存在自体が検証されにくい立場にある、ということである。したがって、近代に至る音楽は基本的にメロディを必要することはいうまでもなく、和声やリズムなどの他の要素がそれに従属するものだという原則が、少なくともアカデミズムの世界ではこんこんと生きていたのである。新ウィーン楽派の音列作法もドイツの伝統を継承するという立場から、あくまでもメロディに該当する「線」を導き出すための方法論に留まっており、決してメロディを破壊したり概念を覆そうとする意図はなかった。その意味では、ウェーベルンのいわゆる点描音楽でさえも、決してメロディが喪失されたものとはいえない。
総音列主義が音列作法のヴァリエーションであると考えれば、その中でもメロディは失われていない。しかしここで耳を音列という観念から解き放ってみよう。先に挙げた「現代音楽に不慣れな人々」にブレーズの音楽を聴かせ、メロディが聞こえるかと訊ねたら、おおかたは否定するだろう。これは概念としてのメロディは生き残っても、実際人々の耳にそれらがメロディとしては認識されない、ということになる。さらに作り手自身がメロディに対して明確な姿勢を持たない上でメロディを否定しようとすれば、それを抹消したつもりの作曲家と、公理そのものを否定していないが故にそれとして書かれてしまった譜面の間で、メロディの存在に関する解釈はどの視点からも剥離を起こさざるを得ないのである。メロディはタブーとして作曲家達により否定された。しかし、本質的な意味で音楽からメロディを完全に抹消できた者は、どこにもいない。
ポストモダンの時代を迎えて、メロディは復権する。少なくとも作曲家の口からメロディを用いることに言及する姿勢が見られはじめる。しかし彼らにとってこれは復権であり、公理として底流に存在していたメロディという概念を意識した行為ではない。つまりメロディを用いると公言する彼らは、それを前衛を逆否定する新しい方法論のひとつとして祭り上げたに過ぎない。そこにはメロディに対する検証の精神は欠如している。すなわち、それは前世代を否定する以前に、前衛が表向き否定したメロディというノスタルジーに、新しい衣を着せて聴衆の眼前に差し出したリニューアルでしかない。このことは、彼らが前衛の否定、あるいは聴衆との接点の模索、という様々な現代音楽の矛盾や問題の解決の糸口としてメロディを用いたことが、現実にはその思惑に反して根本的な解決には遠く及ばなかったことからも伺える。
公理として存在してきたメロディとは一体なんだろう?メロディの最低限の構成が複数の音の継起に因っていると考えれば、いわずもがな時間という概念は無視できない。メロディを発生させる、あるいは聴き取るためには、ある最小限の時間的継続がそのベースとして必要になる。その意味では古典音楽も前衛音楽も、全く同じ条件を有している。にもかかわらず、それらの違いはメロディとして聴かれるか否かという違いを引き起こす。しかしこの同じ条件とは、どちらでも音が継起していることを物理的現象のみから述べたにすぎない。したがって、メロディの成立を物理的な時間概念で説明することは適切とはいえない。また、もし仮にメロディを時間の中の音の組織の仕方という、極めて方法論的な立場からその存在を規定しようとするならば、それが聴き手にメロディとして聴かれるか聴かれないかという区別は、すべての聴き手にとっての絶対的な共有体験から発しなければならない。すなわち、ウェーベルンの点描音楽がある人にとってメロディとして聴かれなければ、それはすべての人にとって同じようにメロディとは聴かれないことになる。しかし現実には、例えば同じ「音の継起」が、人によってメロディとして聴かれる場合とそうでない場合に別れることがある。つまりメロディという時間概念は、物理現象からでも作曲上の方法論からでもなく、もはや聴き手個人の認知的観点から考えられなければならないのである。
聴き手によって聞こえてきたものがメロディと受け取られるかどうかということは、正確にいえば実は、メロディとして捉えられるかどうかという、聴き手の「積極的な聴取」に関わる問題であり、これは近代音楽以降に限られる話である。古典音楽におけるメロディは、ほとんどすべての人によってそれがメロディであることを支持されるだろう。メロディに対する存在意義を疑う必要のなかった時代に、作曲家がメロディとは聞こえないものを創出する必要はなかった。つまり公理とその認識を分かつものは何もなかった。前衛の時代以降、音楽の中でのメロディの存在が否定された、または必要とされなくなった時に、作曲家はメロディであると分かるものを作り出す作業から解放された。その時点でメロディを認識するかどうかの主導権は、完全に聴き手に委ねられたことになる。聴き手は、そこに聞こえてきたもの、音の継起をメロディとして聴くことができ、あるいは聴かないことができる。しかしそれは、メロディが作曲家によって無批判的にあるいはやみくもに排除されていることを知った人にのみいえることであり、冒頭に挙げたような、音楽にはメロディがあるということを大前提として音楽を聴く人々にとって、メロディの創出を拒否したとされる作曲家達による音の羅列は、当然ながら全くメロディとしては聞こえないのである。
メロディという公理が未だ誰の手によっても破壊されず、厳然としてあるのならば、現代音楽と呼ばれる音楽からもメロディを聴き出すことは可能である。そこでは聴き出すための方法論はいらない。ただそこに、メロディがあると意識しさえすればよい。意識されればその音の継起は一転、メロディとして眼前に立ち上がる。つまりそれがメロディであるかどうかの判断は、音楽の原初的な公理を、聴き手が意識的にそれと認めるかどうかという違いでしかない。
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